橋本さんショート

生まれ育った福島県が原発事故の被害に遭い、「地域をテーマに活動しよう」と決めました。

福島市で生まれ育ち、宮城県の大学に進学。その後、福島に戻って出産、子育てをしていたときに東日本大震災が起こりました。これまでに経験したことのない強い揺れを感じ、家から飛び出して避難しましたが、目の前で電柱が倒れ、アスファルトの道路にヒビが入っていくのを見て、まるで世紀末のようだと思いました。

その後、すぐに福島第一原発の爆発事故が発生。私が暮らしていた福島市は避難区域にはならず、そのまま住み続けるか、自主避難するか、個人の判断に委ねられました。私は子どもがまだ小さかったので、南会津町の親戚の家に2カ月ほど身を寄せた後、米沢市の公共宿舎で1年ほど生活しました。

私自身、もともと福島に強い愛着があったわけではありません。正直、そこまで深くふるさとについて考えたことはありませんでした。でも、自分の意志ではないところで、「ふるさとをなくすかもしれない」と思ったときに、それはすごく悲しいものだなと思いました。そんな中で、自然と「福島の復興に関わりたい」「福島のために何かしたい」という気持ちが育っていったのだと思います。

2016年冬、福島県庁が原発被害で大きなダメージを受けた「避難地域12市町村」に対する震災復興事業の職員募集しているのを見た瞬間、「やりたい!」と思いました。すぐに応募して採用試験を受け、4月から福島県庁で働き始めました。震災の影響を受けた事業者向け補助金の書類の確認や、採択後に補助金が適切に使われたかどうかを現地調査する専門員としての仕事でした。

この仕事を通して、12市町村の大変さを痛感。もっと深く関わりたいと考えるようになり、特に人の良さに惹かれた川内村(かわうちむら)の地域おこし協力隊として移住することを決めました。
川内村は、山の中にある人口約2000人の小さな村です。震災後に全員が避難して、一時は空っぽになりました。スーパーに行くのに車で40分、マクドナルドは1時間かかりますが、それは現地では「近い」という感覚です。

最初は川内村に人を呼び込むようなイベント運営や、地域の人同士がつながれる地域食堂を企画したのですが、コロナ禍となり人が集まれなくなりました。もどかしい思いを抱えながら、「この状況でも何かできないだろうか」と考え、地域で野菜を作っているお母さんたちが集まるコミュニティに入れてもらいました。県の農業普及指導員と一緒に、効率の良い栽培や新しい品種開発のための勉強をするグループで、実際に試しながら、黄色いニンジンやケール、トレビスなど、おしゃれな西洋野菜をたくさん作っていたんです。その野菜を私が車に乗せて販売し、「おいしかったよ」というお客様からの声をお母さんたちにフィードバックしていきました。

地域おこし協力隊の任期を終えた後は、プライベートの事情で郡山市に移り住むことになったのですが、今後も何らかの形で川内村に関わっていきたいと思いました。そのためには、いつでも自由に行き来ができるように、時間と場所に捕らわれない働き方をしなければなりません。そこでフリーランスのライターとなり、12市町村の移住者向けのポータルサイトのインタビュー記事の執筆などを担当するようになりました。

福島で活動するライターとのつながりができていく中で、ライター同士が悩みを相談できたり、イベント出展や電子書籍出版にチャレンジしたりするようなコミュニティを結成。ライターに限らず、フリーランスとして活動する人を支援したいという思いが強くなり、2026年からは「小さなビジネス専門コンサルタント」という肩書きを名乗っています。

「地域をテーマに活動したい」という思いは、ある瞬間に生まれたわけではなく、震災から15年半の中で少しずつ育っていったものです。次世代の子どもたちにバトンタッチするときに、福島がより暮らしやすい場所になっていてほしい。私だけではなく、子どもたちのふるさとでもあるから、私は福島にこだわっています。ここで暮らす人が自分らしい生き方を実現できる場所にするために、地域での活動を続けていきます。

(構成/尾越まり恵)

橋本はるか note

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