石田麻美

訪問看護師を辞め、40歳で個人事業主としてフットケアフランチャイズ「ドクターネイル爪革命」に加盟して、経営者としての道を歩み始めることを決めました。

小学2年生のとき、バブル崩壊とともに父の経営していた会社の事業が傾き、倒産。ボロ家に引っ越し、学校に通うだけで精いっぱいの生活に。中学生のときに八百屋の品出しのアルバイトを開始。借金まみれの生活から抜け出すために、一念発起して家族と離れた父とともに高校からは高知へ移り住みました。在学中は朝にパン屋、夜は飲食店でのアルバイトに精を出し、学費を全額自分で負担して卒業しました。

親を恨むこともなく、卒業後もバイトバイト。「頑張れば稼げるじゃん」と楽観的にアルバイトに精を出す日々が続きました。自分が行けなかった修学旅行に弟を行かせてあげたいと頑張った3年間。21歳からは都会を見てみたいと東京へ行き、六本木のバーで働きましたが救急車で3回運ばれるなど体調を崩して高知に戻り、3年間水商売で働いたのち、26歳で結婚、27歳で出産しました。その後、酒癖の悪かった夫にステージ3Cの胃がんが発覚。結果的に命は助かったのですが、このときはじめて「バイト三昧でいいんだろうか。彼が働けなくなったら、娘を大学に進学させられるだろうか」と不安を感じ、「社会的信用のある職業に就こう」と看護学校に通い始め、32歳から看護師として働き始めました。5年生存率の5年間を無事見届けて生活を支えたのち、36歳で円満離婚しました。

環境を変えようと北九州市へ移り、呼吸器内科の看取りなどを担ったのち、精神科に入職。ところがコロナ禍に突入すると思うように働けなくなり、祖父の死に目にも会えず心神喪失状態に。「人と環境の断捨離をしなさい」とアドバイスされ、訪問看護師の仕事に切り替えることを決めました。

30分1コマで全身管理と整容(洗顔・整髪など身だしなみを整えること)を担う訪問看護師の仕事では、足の爪を切ってあげると「爪がきれいになった!」とひどく喜ばれました。もっと簡単な爪のケアがあるのではと調べ始めたところ、フットケアサロンを手掛けるドクターネイル爪革命のYouTubeを発見。きれいにするにはマシンが必要だということに気が付きました。ドクターネイルではフランチャイズオーナーを募集しているようでした。私は運営企業のこともフランチャイズのことも何も知りませんでしたが、好奇心からZOOM面談に応募してみることに。マシンが使えるようなら便利だし、聞いてみて何か違うと思ったら辞めればいいという軽い気持ちでした。

そのZOOM面談で代表は、看護師で生活できているのかと問い、従業員として働く人を家族だと思っていること、神奈川県川崎市の本店なら患者さんも多いこと、九州で収入が安定しないなら川崎本店で面倒をみるから働けば良いことなど、温かい言葉をたくさんかけてくださいました。

「娘を大学に進学させてあげたい」「修学旅行に行かせてあげたい」……。生活はいつもギリギリで、離婚と引っ越し時の借金の返済で苦しい毎日でした。私はそんな話を代表に語るうちに、涙がポロポロこぼれてくるのを自覚しました。思えば家族が借金にまみれてからずっと気丈に生きてきたし、結婚していたときでさえ、働き詰めの毎日でずっと闘ってきたんだ、気を張っていたんだと、はじめて実感した瞬間でした。

2000年7月に説明会に参加し、8月には訪問看護の仕事を退職。代表とともに一緒に事業を成長させていこうと決意し、川崎に1カ月間の研修へ。戻ってすぐに間借りで営業開始。半年で看護師の給料を超え、1年後の代表との面談では「地方で人を育てる研修施設を併設した店舗がほしい」と直談判。2024年3月に北九州に研修センター併設の新店舗をオープンさせることができました。九州全土から生徒が来てくれますし、ドクターネイル爪革命はこの2年で64店舗から200店舗まで拡大させることに成功。そんなドクターネイル爪革命の一員になれていることがうれしく、またとてもご縁を感じています。

私の場合、コロナ禍の訪問看護は看取りも多く、次の現場に行くためにすぐに気持ちを切り替える必要もありました。家族の悲しみも背負いますし、患者さんから当たられることもよくあります。それに比べて現在は99.9%の人が感謝の言葉をくれて、このお店に来てよかったと言ってくれる。かつてのスーパーポジティブが戻ったことで性格も明るくなり、運気もよくなりました。これからも患者さんのため、会社のために頑張っていきたいと思います。