
私の決断は、社長就任を決めたことです。
家の近所に住んでいた監督に声をかけられたことがきっかけで少年野球チームに入ることになった私。野球を知ったのは1985年、阪神・巨人戦でランディ・バース選手と掛布雅之選手、岡田彰布選手が三者連続で本塁打をたたき出した年でした。小学1年生ながら「野球はこんなにすごいんだ」とブラウン管を通じて感じ、「自分もこんなプロ野球選手になってみんなを元気づけたい」と考えるようになりました。
入った野球チームは名門で毎日練習がありハードでしたが、6年生になる頃には公式戦無敗。横浜市内の大きな大会で春秋2連覇を果たし、世界大会でも優勝しました。高校では21校から推薦をいただき、「1年生からレギュラーに起用する」と言ってくれた平塚学園高校に進学。1年生から試合に出場し、秋から4番エースへ。神奈川207校の中でベスト4に導き、1998年、平塚学園初のプロ野球選手として、ドラフト7位で広島東洋カープに入団を決めました。地元紙の記者も固唾を飲んで見守る中、ラジオで名前を呼ばれたときは学校中が大騒ぎで自分よりも周りの人が喜んでくれました。
2月からキャンプ入りし、1年目から2軍で4番。2年目のキャンプからは1軍にも混ざって練習しましたが、開幕直前のケガによりスタメン入りを逃しました。そこで、プロの洗礼を受けたのでした。3割打者は一流ですが、彼らは打てなかった残りの7割と向き合い続けるのです。いままでのような「楽しさ」はそこになく、チームメイトはしのぎを削るライバル同士。誰かがケガをすれば椅子が1つ増えるというプレッシャーと闘い続け、どうしたら試合に出られるのかを24時間考え続ける世界でした。いまから思うと、自分はプロ野球選手になることがゴールで、舞い上がっていただけなのかもしれません。うまく未来を描くことができないまま、21歳で戦力外通告を突きつけられました。
野球しか取り柄のない自分が、野球の世界で「いらない」と言われるのです。ぽかんとしました。自分が人生をかけてやってきたことがたった3年でダメになるなんて想像もしていませんでした。
その後、地元神奈川の住友電気工業の野球部に選手兼ヘッドコーチとして戻りましたが、経営上の都合により3年で休部となり、退職を決めました。そこからは懇意にしていたオートバックス前社長の紹介でブリヂストンタイヤ神奈川販売に転職するも3年で退職。思えばアルバイトもしたことがなかったとガソリンスタンドでアルバイトを始めた頃、ひょんなことから横浜商工に面接に行くことになりました。
27歳で骨を埋める覚悟で入社を決めたのは、厳しさの中にやさしさのある河合昭彦前社長の人柄・器の大きさに惹かれたこと、いろいろな支援・偶然の出会いがあっていまここにいること、「パートナーとして認めてもらえる企業になる」という理念が、誰かに認めてもらいたいと思って生きてきた自分の探していたものだったことなどがその理由でした。
はじめて訪問した営業先では「話にならない」と出禁にもなりましたし、3万点からなる車のパーツ・構造を覚えるのは並大抵のことではありませんでした。でも「戦力外通告の呪縛から逃れたい」「役に立ちたい」という一心で食らいつき、次第に国家資格を持つプロの整備士に商品を提案できるようになっていきました。関係構築ができてくると裁量権や役職も上がっていき、やがて社内外の雰囲気が、自分を次期社長と見ているのだと感じるように。42歳になる年の年末、「来期からはおまえが社長でいくから、どういう未来を描きたいか考えてきて」と言われました。妻やお世話になってきた経営者、両親にも相談しましたが、みんなが背中を押してくれました。
「誰もができることじゃない。これは天命なんだから自信をもって必ずやりなさい」
プロ野球を辞めてから、ずっと自分を見守ってくれた恩師からの一言が最後の一押しとなりました。できるかどうかじゃなく、やろう。そう思いました。いろいろなことに本気で挑戦してみたらできることが増え、できるようになると楽しくなり、そこにまた新しい出会いもあった。
バッターボックスではバットを振らないと出塁できません。行動こそ真実。社員80名、1700社の得意先、そして家族。すべてに恩返しをし、守っていく。そんな決意を胸に、これから100年企業を目指して舵を切っていきます。
(構成/岸のぞみ)横浜商工株式会社 ホームぺージ







