佐藤大記

私の決断は、44歳のときに家業であった砥石(といし)製造会社を辞め、異業種に転職すると決めたことです。

実家は工業用の研削砥石の製造会社で、鉄鋼メーカーや自動車メーカー向けに部品を研磨する工具を作っていました。工場は実家から少し離れたところにあったため、父親に休みのときに連れて行ってもらったことがあり、「大学を卒業したら会社に入れてやるからな」と言われて育ちました。

一方でサッカーが好きだった自分は、中学校卒業後、全国大会出場経験のあるサッカーの強豪高校へ進学。サッカーは得意でしたがAチームには2週間ほどしかいられず、プロの道はあきらめました。大学はスポーツ推薦を希望していましたが制度が変わったこともありうまくいかず、一般推薦で東京の大学に進学。大学卒業後はそのまま父親の会社に入社し、東京支社に配属となりました。

入社後は営業担当として既存顧客のルート営業の他に新規開拓も担当。飛び込み営業が得意で、「研磨工業」「精工」「精機」といった文言が社名に入っている会社のリストを作り、納品終わりに何件も回って行きました。ホームぺージが充実しているか、研削砥石が必要な研削盤を使っているかなど事前の下調べも入念に行いましたが、受付の事務員さんや掃除会社さんと話をする中で情報を吸い上げてうまく新規獲得につなげていきました。

2008年にリーマン・ショックが発生すると、海外戦略マネジャーとして東南アジアを中心とした海外での売上拡大に注力していきました。インドネシア人と会うためにインドネシア語を覚えたり、タイ人の担当者にタイ語を教えてもらったり。ローカルスタッフとうまく連携することで売上の海外比率を10%から15%まで伸長することにも成功しました。

39歳で取締役営業部長へ。ところがこの頃から、製造部の職人たちも営業部の部下たちも「社長の息子だから」便宜を図ってくれているのかもしれない、という疑念を抱くようになりました。そんな中、国内市場で激化する価格競争に対抗すべく、中国産砥石をOEM(相手先ブランド製造)で国内販売する計画を進めていました。しかしこの時期、大手電機メーカーなどは中国生産から国内生産に切り替えており、「時代に逆行する」と当時の会長が大激怒。この計画を進めていた取締役は、私を含む6名全員が取締役を解任されるという大事件に発展していきました。

身内だった私以外の5人は取締役解任とともに会社を去って行きました。私は辞める必要はなく、数年後には役職復帰の可能性も十分ありましたが、これまで自分が取り組んできたすべてのことに対して「本当に自分の実力だったのか」という疑念が強まり、これは自分の本当の実力を試すための絶好の機会なのかもしれない、と考えるようになりました。

こうして、41歳のとき、19年間務めた家業を離れ、後ろ盾のない会社に挑戦することを決めたのでした。協力会社の1社だった専門商社に誘われて働き始め、1年で圧倒的な新規案件を獲得して社長賞を受賞。その後、社内の人間関係に悩むようになり1年半で退職しました。

そこで、ろくに就職活動をしたことのなかった私が、人生ではじめて転職サイトをのぞき、履歴書を書いて面接に行きました。家から近い製造業の仕事で、営業が少ない企業なら役に立てるのではないかと考え、防熱扉を取り扱う現在の岸産業の面接へ。新規開拓の過去実績を滔々(とうとう)と熱弁しましたが「新規はあんまりやっていないんだよね」と肩透かしを食わされることに。しかしその日の夕方には無事「採用」の連絡をいただくことができました。

あれから5年。新しい職場での仕事は、設計、管理、施工部隊や協力会社など関わる人が多く、AMAZONやコストコの倉庫に行くと自社製品が実際に使われているところを見ることができるので、楽しくやりがいを感じています。

かつての年収1000万円からすれば少々物足りない手取りですし、つらいことがあるといまでも「辞めなくてもよかったかもしれない」と弱気になることもありますが、仕事終わりの缶ビール「一番搾り」でその苦さを流し込み、日々がんばっています。毎日勉強ばかりですが、「海外事業部を立ち上げてタイに事業所を設立してよ」と言われることもあり、過去の経験も生かすことができると手ごたえを感じています。まずは現在の年商10億円から100億円企業への飛躍を目指して全力で取り組んでいきたいと思います。

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