銀座 鮨竹 大将 三好史恵さん

銀座 鮨竹 大将 三好史恵さん

8年間、新橋の名店「新ばし しみづ」で修業を積み、2014年に独立して銀座に「鮨竹」を開業した三好史恵さん。前編では、鮨職人の道を志すまでの経緯について紹介した。後編では、男性社会の中での修業の厳しさや、自分の店を持ったいま、大将として大事にしていることなどを聞いた。

 28歳で名店「新ばし しみづ」に弟子入りした三好史恵さん。当時、鮨屋の大将といえばほぼ男性。女性で鮨の修業をする人はゼロに等しかった。

 「修業をしたい」と申し出た三好さんに対して、親方はただ一言、「わかった」とだけ答えたと言う。

 しかし、いざ修業が始まると親方の接し方はアルバイトのときとはガラっと変わった。

 「めちゃくちゃ厳しくなりました。うわー!!! と思いましたね」

 それは、いままで三好さんが見たことも経験したこともない世界だった。そのため、怒られても、親方や兄弟子が何を言っているのかわからないのだ。

 「義理と人情や、兄弟愛といった世界ですよね。私にはまったくわからない世界なので、ひたすら任侠映画を見て学びました(苦笑)。
 簡単に言えば、親方が黒いものを見て『白』と言ったら、それは白なんです。でも、私たち女性は『それは黒じゃないですか』とたぶん言ってしまう。その違いは大きくて、『よくわからないなぁ』とずっと思っていました」

 最初はとにかくがむしゃらに働いた。親方の下に兄弟子が2人。一番下っ端の弟子として入り、皿洗いや掃除、おしぼりを洗ったり巻いたりといった単純作業からスタートした。開店までにすべて準備できるように、段取り良く完璧にこなさなければならない。時間通りにできなかったら、親方の怒声が飛ぶ。

 「ダメだ、やり直せ!」
 「なんでできないんだ!!」

 泣きたくなっても、「泣く暇があったら仕事しろ!」と言われる。そもそも忙しいお店だったために、悩んでいる時間はなかった。常に全速力で走っていた。

 「それでも、やっぱりよく泣いていましたよ。歴代のお弟子さんの中では、私がたぶん一番怒られたと思います。親方の怒りのスイッチを押すのも上手だったんですよね(苦笑)」

銀座 鮨竹

修業中は怒られながら、がむしゃらに働いた


 親方は厳しかったが、愛情深い人でもあった。

 「何かあれば、必ず守ってくれる人でした。働き始めた当時、親方は周囲から『女性なんて雇って大丈夫なの?』『よく女性なんて雇ったね』と言われていたと思います。後から聞くと、私を雇うときに『一生こいつの面倒を見よう』と思ったそうです。親方も、私を雇う時点で相当な覚悟が必要で、その覚悟を決めてくれたのだと思います。親方でなかったら、私はいまここに立てていません」

 女性の弟子に対して、周囲の目も冷ややかだったと言う。 

 「最初はお客さんも市場の人も、私のことを弟子として見てくれなかったですね。『どうせすぐ辞めるんでしょ』と思われているのが伝わってきました」

 それが、悔しかった。

 「こんちくしょうですよね。だったら続けてやる、と思って踏ん張っていました。兄弟子たちにも、とにかく続けろ。続けていたらいいことがあるから、とにかく辞めるなと言われていました」

 10代のとき、スポーツも美術も極められず、中途半端に終わってしまった。鮨職人としては、絶対に途中で諦めたくない、と三好さんは思った。

 「逃げるのは簡単なので。でも、逃げたら『ほら、やっぱり辞めたよね』と言われてしまう。若い頃は、見てろよ、絶対に見返してやるという思いが続けるモチベーションになっていました。

 いまとなっては、そんな厳しい修業時代もいい思い出だ。

 「確かにすごくしんどかったけれど、それがいまは笑い話やいい思い出に変換されています。それは、すべてがいまに生きているからだと思います。『あれを乗り越えたんだから大丈夫』と思えますし、いろいろなことをポジティブに変換できるように、考え方も変わりました」

独立のタイミングは
自分で決める

 鮨職人として独り立ちするには、だいたい8年から10年の修業が必要だと言われている。長い修業生活の中で、三好さんの気持ちにもさまざまな変化があった。

 鮨職人として独立を目指してきたものの、「このまま続けて、女性の私が鮨職人になっていいのだろうか」と考えることもあったという。

 それでも三好さんが前に進むきっかけになった1つが、大大親方(親方の親方の親方)の言葉だった。しみづの周年記念パーティでたまたま会う機会があった。世代的にも「女は鮨職人にはなれない」などと言われるのではないかと三好さんは身構えた。

 しかし、大親方の言葉は、意外なものだった。
 「あなたは女性だから、男性の社会を学んで頑張りなさい。私は男性だから、芸子さんたちから女性の世界を学ばせてもらったんだよ」

 その言葉は、三好さんに鮨職人になるための勇気を与えた。
 「女の私でも鮨職人になっていいんだな、と思いました。男性の鮨職人はたくさんいるけれど、女性の世界を知っている職人はいない。女性であることはむしろ強みになる、と思えたんです」

 性別に関係なく、自分に欠けている部分を学び補えばいい。そんな姿勢を大親方に教わった。

銀座 鮨竹

8年間に及ぶ修業期間では、将来に悩むこともあった


 そうして、三好さんがついに修業を終えるときがくる。独立するタイミングはどうやって決めるのか。

 「風が、吹くんです」

 風とは、自分自身の成長だけでなく、お客様など周囲から感じるもの、あるいは、自分が店を抜けた後、次の弟子が育っているかどうかといった、お店側のタイミングもある。

 「お客さんからも、そろそろどうなの? といった雰囲気を感じるようになります。でも、誰かに太鼓判を押されて出るわけではないんです。親方がそろそろ卒業していいぞと言ってくれるわけではない。独立は自分で決めることです」

 2014年、三好さんは独立を決意した。

教わった鮨に
自分なりの表現を加える

 お店を出すエリアは最初から銀座に決めていたわけではなく、いくつかのエリアで物件を見た中で、さまざまな条件が合った銀座に決めた。

銀座 鮨竹

最初は自分が握る鮨に自信が持てず、不安だった


 2014年6月に銀座 鮨竹をオープン。女性が鮨店を出すことに対して、「風当りが強いだろうと覚悟していた」と言うが、ちょうど時代の変わり目でもあり、訪れる客はみんな温かかった。

 自分で店を持ち大将になると、何か迷っても親方や兄弟子に聞くことはできない。最初の3年は自信が持てず、とにかく不安だった。
 当時の若いお弟子さんに食べてもらって、『これで大丈夫かな?』とよく聞いていました。大丈夫ですよと背中を押してもらって、ようやく安心できるといった感じでしたね」

 しみづの流儀で、卒業した弟子は親方の店に行くことはできない。
 「弟子入りしたときから、弟子は親方の鮨を食べることはありません。握った鮨を差し出されて食べることはあっても、客として親方が握る鮨のストーリーを最初から最後まで味わうことはない。独立してからも、親方の鮨を食べに行くことはできません。
でも、それで良かったと思うんですよね。通うと引っ張られるから。いまでも私の理想は親方の鮨であり、常に親方の鮨を追いかけています。だからこそ、行かないほうがいいと思っています」

 最初はずっと、親方だったらこうするだろう、と考えて判断していた。しかし、3年経った頃から、自分の考えで変えていけるようになった。

 「親方に教わったベースは変わりませんが、そこに自分なりの表現を加えていかなければ、自分でお店を出した意味がありません」

銀座 鮨竹

開店から3年が経った頃から自分なりの表現を加えられるようになった


 鮨竹で弟子として働く谷口一勢さんは、通っていた調理師専門学校に特別講師として三好さんが講義をしたことをきっかけに、5年前に鮨竹で修業を始めた。

 「正直、最初は女性の大将は怖いのかなという印象がありました。でも、実際には全然そんなことはありません。大将はお客さんのすごく小さな変化にも気づきます。鮨の技術はもちろん、そういった接客における気配りについてもたくさん学んでいます」(谷口さん)

銀座 鮨竹

2019年から鮨竹で修業している弟子の谷口さん(写真右) 故郷の富山で鮨店を出すのが夢


 鮨竹を開業して、間もなく10年になる。

 「みんなに助けられていまがあります。一人では絶対にここまで来られていません。10年続けられていることが本当にありがたいですね」と三好さんは振り返る。

銀座 鮨竹

「自分自身のコンディションによっても味が変わるため、なるべく心穏やかにというのをこころがけて、丁寧に過ごしていきたい」と話す


 修業を始めてから20年近く経っても、「鮨の道を極めたとは言えない。まだまだです」と話す三好さん。

 「いい職人だねと言われるように、いい仕事をしていきたいですね。自分に嘘をつかず、まっとうに、真摯に、鮨に向き合っていきます」

 職人の道に、ゴールはない。

 「だから、続けられるんじゃないですかね。もうやり切ったと思ったら、それが辞め時なんだと思います」

(文/尾越まり恵 写真/齋藤海月)
プロフィール
三好史恵(みよし・ふみえ)
銀座 鮨竹 大将

1978年、愛知県春日井市生まれ。東京のインテリア専門学校を卒業後、設計事務所に就職。3年ほど働いた後、1年間イギリスで過ごす。帰国後、和食居酒屋で働き、28歳のときに鮨店「新ばし しみづ」に弟子入り。8年間の修業を経て2014年に独立し、銀座7丁目に「銀座 鮨竹」を開業する。


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