吉川さんショート

アメリカで金融コンサルティングの仕事をしていた30代前半、妊娠・出産したいと考え、海外出張のないメガバンクに転職することを決めました。

中学時代の友達の影響で洋楽が好きになり、当時は英語の歌詞をひたすら書き写していました。女性が社会で活躍している欧米の文化に触れ、将来はグローバルに働ける人になりたいと考えていました。
大阪大学を卒業後、アメリカの⼤学院で国際⾏政学の修⼠号を取得。自由なアメリカ生活に馴染み、そのままアメリカに残って金融系企業のコンサルティング部門で働きました。

30歳で大学院の同級生と結婚した後も仕事を続けていたのですが、南米や中国など長期の海外出張が多く、6カ月に一度、2週間だけアメリカに戻って夫と過ごす、といった生活の中で、子どもを授かる余裕はありませんでした。
結婚当時から、夫とは「子どもがほしいね」と話してたものの、少しずつ歳を重ねていくうちに、「あれ、このままで大丈夫かな?」と考えるようになりました。

妊娠・出産に向き合おうと考え、33歳で海外出張のないフランス系メガバンクへの転職を決意。金融コンサルティングの仕事は楽しかったので、離れることに未練はありましたが、銀行の経験もきっと自分の糧になると思い、踏み切ることにしました。

その後、一度妊娠したものの流産し、そのまま35歳まで子どもを授かりませんでした。そこから本格的に不妊治療をスタート。いま振り返っても、この頃は「また流産したらどうしよう」「一生子どもができなかったらどうしよう」という不安に取りつかれた暗黒期でした。
ただ、会社は妊活に理解があり、当時の上司も女性だったので、不妊治療と仕事の両立に悩まずに済んだのはありがたかったです。

38歳のときに双子を妊娠。無事に出産できたときは、「生まれたーーー!」とものすごく感動し、涙がこぼれました。
「一度に2人を出産できてラッキーだったね」と夫と話していたら、その2年後には娘を自然妊娠。結果的に3人の子どもに恵まれました。

しかし、仕事と育児の両立は思った以上に難しいものでした。ベビーシッターに娘を預けながら銀行で働いていると、「はじめて公園の遊具で遊びました」「お友達とおもちゃをシェアして遊べました」など、娘の日常の様子がメールで送られてきます。ある日、会社で搾乳していたときに、同じように娘のはじめての瞬間の報告が届きました。
その瞬間、「私はここで何をしているんだろう」と悲しくなったんです。

娘の「はじめて」を逃してまで、本当にここで働きたいのだろうか、と自問自答し、そのときは「どうせ育児を犠牲にするなら、もっとやりがいのある仕事をしたい」と考え、別の銀行に転職することにしました。
しかし、職場環境が合わず、すぐにスタートアップ企業に転職。この頃は、転職してもなかなかうまくいかず、「強く望んでやっと授かった子どもなのに、もっと育児に携われるような生活をしたい」という思いが強くなっていきました。

そんなタイミングでコーチングと出会い、自分の見える世界が変わりました。キャリアに悩む女性たちをサポートしたいと考え、2020年にまずは副業として海外企業への就職や海外でのキャリアアップを望む日本人女性に向けて、アメリカからオンラインでのコーチングをスタート。2021年には本業を辞めて法人化し、いまはコーチの育成も手掛けています。

子どもたちはいま、小学生になりました。起業してからは学校のボランティアにも参加できるようになり、育児にかけられる時間も増えました。
もともと仕事が好きで、頑張ってきて良かったと思うのと同時に、子育ても自分の成長につながっていると感じています。
若い頃は、大企業でキャリアを積んでいくことにとらわれていて、出産に躊躇した時期もありました。でも、いざ企業の外に出てみると、その選択だけが正解ではないことがよくわかります。育児を取り巻く環境はどんどん変化していきますし、キャリアは自分でいくらでも作っていけます。だから、「生みたい」と思ったときが生みどきだと思います。

(構成/尾越まり恵)

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