2023年、39歳で乳がんに罹患。複数の医師の意見を聞き、最終的に納得できる治療法を自分で選択しました。
大学卒業後、東京のIT企業に入社したものの長く続かず、その後も自分が望む仕事と与えられる仕事とのギャップや人間関係など、さまざまな理由で複数の会社を転々とする日々。26歳で入社した出前館で、ようやく希望していた広報の仕事に携わることができ、3年間働きました。
その後、ゲーム会社のPRなどを経て、2016年にCollabo合同会社を設立。ゲームのマーケティング支援の一環で開発した「キングダムキャラクター診断」がヒットしたことから、性格診断を法人向けにサービス化し、事業は軌道に乗りました。
体に異変を感じたのは2023年。鏡を見ると胸にしこりがあるように見えました。もともと良性の腫瘍があり、3カ月に一度経過観察を続けていたのですが、前回の検診では特に指摘されず。すぐに病院に行き診てもらったところ、医師には「また1カ月後に経過を見ましょう」と言われました。友人から「1カ月も放置してはダメ」と言われ、別の病院に行くと、すぐに組織診(針生検)をして、2週間後にがんだと特定されました。すでにリンパ節にも転移しており、わりと深刻な状況でした。
私にとっては、死の恐怖よりも、乳房がなくなることと、抗がん剤で髪の毛が抜けることの方が耐え難いことでした。医師にどんな処置が必要かを聞いたときに「予後を良くするためには乳房を全摘出した方がいい」と言われ、治療をするか悩みました。
周囲の人からは「命のほうが大事だから、胸や髪にこだわっている場合じゃない」と言われましたが、当時の私にとっては、命と同じくらい大切なことだと感じていました。
そこからPET-CT検査の結果が出るまで2週間あったので、その期間に4thオピニオンまで受け、最終的に自分の希望する治療をかなえてくれる病院を見つけることができました。希望の治療とは、自費診療ではありますが、頭皮を冷却しながら抗がん剤治療をすることで髪の毛を抜けにくくすることと、乳房を温存すること。結果的に、私は抗がん剤がよく効いたために、がんはほとんど消滅。小さな原発の部位のみを切除しました。この治療法は、大学病院の先生から推奨された治療ではなく、それがどう予後に影響が出るかはわかりませんが、4人の先生からアドバイスを受けたうえで、自分で決断しました。
治療中も仕事は続けました。病気を理由に人生を止めたくなかったし、できるだけ普段通りに生活を送りたいと思ったからです。
一方で、仕事だけを頑張る人生に違和感を覚えました。仕事はその人のアイデンティティの一部であることは確かなことです。病気になる前は「仕事で結果を出すことで自分の価値を高めたい」という気持ちがあったのですが、治療を通して、「私はもうすべてを持っていたんだな」と感じました。仕事で結果を出しても出さなくても、私は完全体だったことに気付いたのです。
病気になる前は、面倒だな、忙しいなと思って、実家に帰ることを先延ばしにすることもありました。でも、病気に限らず、人生はいつ何が起こるかわかりません。いまは「今日が最後の日かもしれない」と考え、家族にも頻繁に会うようにしています。
いつ何があっても「いい人生だった」と思えるように生きていきたい。病気になってから、1日1日を大事に生きています。
これから闘病する方は、自分が納得できる治療をしてほしいと切に願います。医師は医療の知識を授けてくれ、治療をしてくれる存在ではありますが、自分の体に責任を持てるのは、自分だけです。
また、少し話が変わりますが、私はがんになる前からうつ病だと思い込んで10年近くも心療内科に通っていました。ところが、血液検査で甲状腺機能低下症(橋本病)であることがわかったのです。まぬけなお話ですが、気分の落ち込みや体のだるさは精神的なものではなく、甲状腺機能によるものでした。不調を感じたら、まずは体の機能に問題がないかを調べて、そこから心療内科に行くことをおすすめします。
(構成/尾越まり恵)
大学卒業後、東京のIT企業に入社したものの長く続かず、その後も自分が望む仕事と与えられる仕事とのギャップや人間関係など、さまざまな理由で複数の会社を転々とする日々。26歳で入社した出前館で、ようやく希望していた広報の仕事に携わることができ、3年間働きました。
その後、ゲーム会社のPRなどを経て、2016年にCollabo合同会社を設立。ゲームのマーケティング支援の一環で開発した「キングダムキャラクター診断」がヒットしたことから、性格診断を法人向けにサービス化し、事業は軌道に乗りました。
体に異変を感じたのは2023年。鏡を見ると胸にしこりがあるように見えました。もともと良性の腫瘍があり、3カ月に一度経過観察を続けていたのですが、前回の検診では特に指摘されず。すぐに病院に行き診てもらったところ、医師には「また1カ月後に経過を見ましょう」と言われました。友人から「1カ月も放置してはダメ」と言われ、別の病院に行くと、すぐに組織診(針生検)をして、2週間後にがんだと特定されました。すでにリンパ節にも転移しており、わりと深刻な状況でした。
私にとっては、死の恐怖よりも、乳房がなくなることと、抗がん剤で髪の毛が抜けることの方が耐え難いことでした。医師にどんな処置が必要かを聞いたときに「予後を良くするためには乳房を全摘出した方がいい」と言われ、治療をするか悩みました。
周囲の人からは「命のほうが大事だから、胸や髪にこだわっている場合じゃない」と言われましたが、当時の私にとっては、命と同じくらい大切なことだと感じていました。
そこからPET-CT検査の結果が出るまで2週間あったので、その期間に4thオピニオンまで受け、最終的に自分の希望する治療をかなえてくれる病院を見つけることができました。希望の治療とは、自費診療ではありますが、頭皮を冷却しながら抗がん剤治療をすることで髪の毛を抜けにくくすることと、乳房を温存すること。結果的に、私は抗がん剤がよく効いたために、がんはほとんど消滅。小さな原発の部位のみを切除しました。この治療法は、大学病院の先生から推奨された治療ではなく、それがどう予後に影響が出るかはわかりませんが、4人の先生からアドバイスを受けたうえで、自分で決断しました。
治療中も仕事は続けました。病気を理由に人生を止めたくなかったし、できるだけ普段通りに生活を送りたいと思ったからです。
一方で、仕事だけを頑張る人生に違和感を覚えました。仕事はその人のアイデンティティの一部であることは確かなことです。病気になる前は「仕事で結果を出すことで自分の価値を高めたい」という気持ちがあったのですが、治療を通して、「私はもうすべてを持っていたんだな」と感じました。仕事で結果を出しても出さなくても、私は完全体だったことに気付いたのです。
病気になる前は、面倒だな、忙しいなと思って、実家に帰ることを先延ばしにすることもありました。でも、病気に限らず、人生はいつ何が起こるかわかりません。いまは「今日が最後の日かもしれない」と考え、家族にも頻繁に会うようにしています。
いつ何があっても「いい人生だった」と思えるように生きていきたい。病気になってから、1日1日を大事に生きています。
これから闘病する方は、自分が納得できる治療をしてほしいと切に願います。医師は医療の知識を授けてくれ、治療をしてくれる存在ではありますが、自分の体に責任を持てるのは、自分だけです。
また、少し話が変わりますが、私はがんになる前からうつ病だと思い込んで10年近くも心療内科に通っていました。ところが、血液検査で甲状腺機能低下症(橋本病)であることがわかったのです。まぬけなお話ですが、気分の落ち込みや体のだるさは精神的なものではなく、甲状腺機能によるものでした。不調を感じたら、まずは体の機能に問題がないかを調べて、そこから心療内科に行くことをおすすめします。
(構成/尾越まり恵)
佐藤由紀子 オフィシャルサイト