29歳で1000万円の借金返済の目途がついたとき、自由のない年収1000万円の生活を捨て、自由に生きることを決めました。
私の社会人人生のはじまりは、期せず過酷なものとなりました。大学4年生のときにバイクで走行中、横断歩道を歩いていた歩行者との衝突事故を起こしてしまったためです。保険はちょうど事故の3日前に切れており、歩行者は幸いにも重症を負わずに済みましたが、私は21歳で1000万円の借金を背負うこととなりました。当時は時給750円のアルバイト生活。到底返せる金額ではありません。早急に借金を返済する必要があった私は、ブラック企業と知りながら、とある証券会社に入社することを決めました。
勤務時間は朝7時半から23時半まで。1日の休憩時間はわずか20分で、昼になったら仕出しのお弁当が配られるため、それを急いで5分でかき込みました。主な仕事はテレアポで、怒声が聞こえないように机の下に潜り込んで毎日毎日電話をかけ続けました。光も差さない薄暗いオフィスビルでその日の天気も知らないままに1日を終えるような日々。40人の新卒社員は1年後には20人になり、みんなストレスや過労で血尿を出していました。
それでも稼げることは本当で、1年目で年収600万円。入社4カ月でトップ10入りの成績を出した私は2年目から年収800万円になりました。チームで目標数字を追いかける団体戦だったので組織づくりにも精を出し、自分のチームは好成績を残し続けました。
29歳、返済の目途がついた頃には名古屋支店の副支店長として年収1000万円の地位に上り詰めていました。「お金を返すため」以外の選択肢がはじめて垣間見えた瞬間、「このまま自由を捨て、年収1000万円の生活を借金なしで続けるか、それとも年収1000万円の会社を辞めて、自由に生きるか?」という命題が脳裏に浮かびました。
――新しいことに挑戦して、自由に生きよう。
そう決意したものの、そこからの30代の人生はあまりにもうまくいかず、失敗の連続。生命保険の外交員に転向しては「思ったほど稼げない」と退職し、保険窓口の乗合代理店を始めては失敗。電話営業の経験を生かし、不動産投資の営業を始めるもうまくいかず1年で退職。何もかも嫌になって都会を捨てようと福井県の旅館で住み込み仕事をスタート。しかしお客様のクルマを預かって車庫に入れる仕事を3日で3台のクルマをダメにしてクビになり、お弁当屋さんを始めてみてはライバル店ができて撤退しました。
いま思えば30代は「他責思考」で、うまくいかないのは「商品のせい」「環境のせい」と周囲のせいにばかりしてきました。ところが家電量販店でパソコンとともに光回線を販売する仕事についてみると、成果報酬式で1日20万円を稼ぐことができました。土日だけの勤務で1カ月に100万円稼げます。この仕事で評価された私は資本金1円の零細企業として起業し、この仕事を業務委託として請け負うように。その後、光回線の販売スタッフを派遣する仕事もいただくようになり、現在は「コミュファ光」の一次代理店となることができました。交通費もホテル代もすべて持ち出しですが、「受注が取れても取れなくても自分の責任」と考えるようになると楽になり、もっとうまく稼げるようにもなりました。
そして自分と同じように挑戦したいと考える人たちを集めてフラットな組織が作れないかと思い、スタッフ集めにも注力し始めています。中途で入社してくる人は人生がうまくいっていない人ばかり。まるでかつての自分を見ているようです。でも、遠回りしたぶん、やさしくも強くもなれると思っているので、半分フリーランスのような自由な働き方がしたいと考える仲間を集めて、みんなの夢を叶えていきたい。現在は紹介で毎月4人は面接に来ますし、「週2で働いて、週5で遊びたい」「社内起業してビジネスに挑戦したい」とさまざまな人生プランを抱えた仲間とともに楽しく働いています。
借金1000万円という大きな足かせをはめて始まった私の社会人人生ですが、29歳のとき「自由に生きる」ことを選択できたおかげで、回り道をしながらもお金も自由も仲間も手に入れることができました。
(構成/岸のぞみ)株式会社アナザーウェイブ ホームページ