實川大貴

私の決断は、23歳のときに耐火被覆(ひふく)工事の会社を立ち上げたことです。

2歳のときに両親が離婚し、祖父母と同居する母子家庭で育ちました。小学校の頃からやんちゃで不登校となり、実家のある東京都江戸川区から千葉県銚子市まで「チャリンコ暴走族」として友達を率いて爆走していました。現在は国家公務員として働いている1つ上の兄は優秀で期待をかけられていた反面、次男坊の自分は放任主義で育ちました。建築業を営む祖父は、自分が問題を起こして帰ってきても、頭ごなしに叱るのではなく、「つまらんことするな」といって、乗り物好きだった自分のために自転車に手を加えてくれたり、自分の興味のあることに賛同してくれたり、とても豪快な人でした。そんな祖父が、自宅近くの作業場で作業着を着てクレーン車を操る姿は格好よく、憧れを抱いたものでした。

中学生になってからは、日中は学校には行かずに改造単車を乗り回す生活へ。それでも部活だけは好きだったので、夕方になるとバスケットボール部の練習に打ち込み、ポイントガードとして江戸川区の区選抜に選ばれたこともありました。中学2年生のときに試合を見に来ていた高校バスケ部の顧問でオリンピックの審判員なども務めた先生に声を掛けられ高校の体験授業にも参加。自分に期待してくれたことがうれしく、その先生の計らいで体験授業を受けていた高校にそのまま進学することができました。

高校の入学式は気合いを入れて、短ラン・ボンタンでキメて単車で乗り付け、入学式の看板の前で記念撮影していたところ、先輩方に目を付けられて殴り合いに発展。入学初日に停学処分となりました。約半年間の停学期間中は建設現場や解体工事のアルバイトをしながら、部活だけは参加が許され、練習に励んだことも。ところが停学明けの登校日、自分の机の上に嫌がらせで花瓶が置いてあるのを見て、また激高。隣の席にいた生徒に殴りかかって退学処分となりました。

そこからは将来の方向性を見失い、耐火被覆の会社でアルバイトとして働きながら、暴走族にも所属し、ケンカや改造バイクに明け暮れる荒れた日々を過ごしました。「このままじゃだめだ」とわかっていても、なかなか抜け出せず、何度もケンカ沙汰を起こし、16~17歳の2年間に三度の勾留を経験。17歳、3度目の勾留で鑑別所に母親がはじめて謁見に来てくれたのですが、「私のせい? 父親がいないせい?」と涙する姿に「やりすぎた。二度と泣かせられない」と改心を決意しました。

「仕事をちゃんとする」「捕まらない」「ケンカしない」と心に決めて、勤めていた耐火被覆の会社にそのまま正社員として就職しました。建物を耐火材で覆う耐火被覆の仕事は得意で、人生で初めてできた「誇れるもの」でした。あるとき社長に「耐火被覆は人を守ることができる立派な仕事だ」言われたことが強く胸に残り、「誰かのためになることをしたい」と思えるようにもなったのです。高齢化が進む業界のためにも、若者を募って独立したいと考えるようになると、現場で技術を覚えながら、資格取得にも積極的に取り組むようになり、書籍を購入して会社の立ち上げ方を学ぶなど、人生初の猛勉強を開始。19歳で個人事業主として独立しました。

バイクも手放し人も雇って仕事に打ち込みましたが、今度は従業員の離職に悩まされました。待遇面も改善できず、何より従業員を大切にできなかった。挫折感を味わい、機械もトラックも売却して廃業を決意します。ところがある日、取引先の大手建設会社の社長と道で出会って「人が足りないから手伝ってよ」と言われたことを機に、個人事業主としての再始動を決意。23歳で法人化しました。

かつてつまずいた人材採用については離職していった仲間に自分のどこがいけなかったのかをヒヤリングして改善、中間管理職を育てるなど工夫しました。耐火被覆の仕事の意義や価値、思いをきちんと伝えるため、「實川塾」を月1回開催しています。コロナ禍にはすべての現場がストップして資金がショートしたため、補助金の活用や8000万円の融資を受けることに。巨額の融資は震えましたが、せっかく集まってくれた仲間たちを見捨てたくありませんでしたし、みんなとならそれぐらいの金額を稼げるはずだと信じることができたのです。

かつては自分も誰かのために自分の時間を費やすことに価値を見出せず、すべてを他人や環境のせいにしていました。その失敗があったからこそ、仲間の大切さや仕事の意義に気づけたと思っています。自分のように迷っている若者に、働くことで人生が変わる瞬間を体験してほしい。「ブラック企業が」「待遇が」と言っていても幸せにはなれません。野心を持って仕事に取り組んだ方が人生は楽しいし生活も豊かになる。これからも変わらず「日本のてっぺんを取れる会社」を目指して仲間と邁進していきたいと思います。


株式会社實川耐工 ホームぺージ

おすすめの記事