27歳のとき、ヤンキーや引きこもりといった、社会で働くチャンスを得にくい人たちを雇用するための会社を立ち上げると決めました。
大阪市東成(ひがしなり)区の出身で、父親は酒を飲んでは母親を殴るのが日課な家庭で6人兄弟の末っ子として育ちました。母が父の暴力により入院したり、市役所の担当者が何度も視察に来たりする毎日で、家庭は貧しく、夜逃げをして1カ月間公園暮らしをしたこともあります。
「高校ぐらい出ろ」と父親に言われて中学卒業後は学区内でいちばん偏差値の低い高校に進学。クラスメイトはヤンキーばかりでしたが血と暴力に慣れていた自分は次第に一目を置かれるようになり、他校とのケンカの仲裁に入るなど、生活指導の教員からも信頼されるようになりました。
16歳から昼はスーパーで野菜の品出し、夜はガソリンスタンドや夜間警備員として働き、月収15万円ほどを稼ぐことに成功。高校卒業後は精肉屋さんに勤務し、勤続1年経つ頃には営業成績で新人賞を獲得。業界専門誌の表紙に「肉界の貴公子現る」と特集されるほど仕事がうまくいっていましたが、BSEという狂牛病ウイルスの感染拡大の影響を受けて店舗が閉店。知人から紹介された不動産営業の仕事に転職しました。
21歳で転職した不動産会社でも仕事は大成功。年商50億円売り上げて上司は大喜びで、秘書4名に社用車もつき、あっという間に月収100万円を稼げるようになっていました。この頃、行動心理学・マネジメント・経営といったセミナーにも毎日通っており、中には寄付やお布施、詐欺まがいのセミナーもあって気づけば4000万円の借金が膨らんでいました。稼いでいたのでいつでも返せると高(たか)をくくっていたのです。26歳頃になるとどんどん自信をなくし、転職をいくら繰り返してもまったく受注が取れなくなっていきました。お金がなくなると人々も去り、何を信じていいかわからない状態に。
故郷の大阪に戻り、かつて住んでいた団地の14階から飛び降りようと柵に手をかけたとき、生まれ育った家庭、お世話になった近隣の人たち、人生で楽しかったこと、苦しかったことが走馬灯のように頭の中に流れ込みました。
――小さい頃、正義の味方であるウルトラマンになりたかったな。
そんなことを思い出したとき、いまの自分が銭ゲバになっていることに気が付きました。ここまでの人生を悔い改めよう。世のため人のために生きてみよう――。
その後、兄が携わっていた光回線の仕事の手伝いを経てIT系の営業会社に転職。心を入れ替えるとまた仕事もうまくいくようになりました。この頃、全身入れ墨の若い男の子と派遣先で出会いました。急にケンカを売ってきたので返り討ちにし、「こんなことばっかりしてないで、成功したくない? 一緒に幸せにならん?」と声をかけてみたのです。すると涙を流しながら「幸せになりたいです」と答えました。考えてみれば自分は4000万円も借金するほどさまざまなセミナーで知識を得てきましたし、営業の実力もありました。教えられることがたくさんあることに気づいたのです。
こうして居場所をなくし、非行に走ったり、不健全な環境に身を置いていたりしている若者たちを自宅に招いてはセミナーを開催するように。ビジネスマナー、成功哲学、営業手法について日々教えました。毎日金属バットを持って暴れまわる子どもが急に更生するので評判が広がり、クリスマスパーティーに500人も人が集まるコミュニティに発展していきました。
ところが、「昼にスーツを来て仕事をしてほしい」という親たちの希望を叶えるために知り合いの社長に紹介をしても無断欠勤をしたり暴力沙汰を起こしてクビになってしまうのです。「こっちが命がけで紹介してんのにまじめにやれ!!」と説教すると、「……青野さんだったら俺らをクビにしないよね」と彼らは言いました。
――確かに自分ならクビにしないかもしれない。
こうして27歳のとき、フリースタイル社を立ち上げました。
優秀な人を奪い合って採用したところで日本の労働力は増えません。でもヤンキーたちは営業の才能があったり、引きこもりたちはパソコンが得意だったりします。特別優秀なわけではない人たちに手を差し伸べて1から教育すれば、その1人の人生を救いながら社会の労働力を増やすことができる。未熟なときに拾われて成長を後押してもらった会社には恩義や愛を感じるので辞めていく人も少ないものです。フリースタイルを大きくしていくことで、救われる人を増やしていく。これからもそんな社会をつくるために、事業拡大を進めていきたいと思います。
株式会社フリースタイル ホームぺージ