多くの名店がひしめき合う、東京・銀座。中央通りを新橋方面に進み、右手の路地に入った銀座7丁目、石井紀州屋ビルの4階にあるのが「銀座 鮨竹」だ。このお店の大将は、三好史恵さん。開業時には数少ない女性大将のお店として注目を集めた。
三好さんは「新ばし しみづ」で8年の修業を積み、2014年に独立した。鮨竹ではしみづの江戸前寿司を踏襲する。
カウンターのみ8席。内装はとにかく「シンプル」であることを心掛けた。コの字型のカウンターも多いが、鮨竹のカウンターは8人が横並びのストレート。これも三好さんのこだわりだ。
「角を作ると、見えなくていいところもお客様から見えてしまいます。また、端と端で向かい合うお客様同士の目が合うことも避けたいと考え、カウンターはストレートに決めました」
銀座の鮨店というと、はじめて行く人には敷居が高いイメージもある。しかし、鮨竹は大将が女性ということもあり和やかな雰囲気なので、女性1人の一見客も多く訪れる。
「おいしいと言っていただくことももちろん嬉しいですが、楽しかったと言われることがすごく嬉しいですね。嫌なことがあって落ち込んでいるときでも、『ここでお鮨を食べたら元気になった』と言ってもらえると、もっと頑張ろう、もっといい鮨を出そうと思います」
油絵で美大を目指すも挫折
何をしても中途半端だった10代
愛知県春日井市に生まれ育った三好さん。「家の中にいるより外で遊ぶのが好きな、おてんばな子どもだった」と言う。小学校はバスケットボール、中学校ではハンドボールに打ち込んだ。
しかし、いわゆる「女の子らしくない」三好さんは、小学生の頃から周囲の女友達とのずれを感じ始める。
「休み時間、男の子は球技するなど外で遊び、女の子は教室の中で過ごすのが普通でした。でも、私は男子と一緒にドッチボールをする方が楽しかったんです。あるとき友達に『史恵ちゃんは私たちといるより、男の子といるほうが楽しそうだね』と言われて、そこから男子と一緒に遊ぶのをやめました。その頃から、周囲の顔色をうかがうようにして生きてきました」
最初に料理に興味を持ったのは、高校時代のイタリアンのアルバイトがきっかけだった。小さなお店だったため、仕込みから調理、配膳まで一通り経験させてもらった。
「作った料理をお客さまに提供して、喜んでもらえる瞬間が嬉しかったですね。学んだ料理を家で作ったりしていました」
一方で、高校時代には美術にも打ち込んだ。美術の先生に油絵を褒められたのをきっかけに、美術大学を目指して予備校に通った。
「でも、美大の油絵って、ものすごくレベルが高いんですよ。勉強するうちにどんどん自信をなくしてしまって、結局、大学受験はしませんでした」
この経験は、三好さんの心に「挫折」として残った。
「予備校に通うために、両親には高額の投資をしてもらいました。スポーツも好きだったけれど、何か結果を残せたわけではない。全部中途半端で、10代の頃は何1つ極めることができていない自分に対して、コンプレックスを抱いていました」
イギリスで過ごした1年間
日本の良さを知ることができた
美大を諦めた三好さんは、東京のインテリア専門学校に進学する。2年間、インテリアを学んだ後、学校の先生の紹介で設計事務所に就職。ショールームの接客と事務の仕事がメインで、たまに図面を書いたりもした。
「基本的に定時で終わる仕事で、慣れてきたら物足りないと感じるようになりました。まだ若かったので、刺激が欲しかったんだと思います」
3年ほど働いた三好さんは、1年間イギリスに行くことを決意する。英語圏で、ヨーロッパの建築を見られて、車の運転をせずに移動ができる場所というのがイギリスを選んだ理由だ。
バックパッカーの人たちが泊まるようなホテルでアルバイトをしながら、現地で知り合った人の家を転々として暮らした。
いまでも記憶に残っているのは、仲良くなったイタリア人の友達と人生ではじめてケンカをしたことだ。
「喜怒哀楽の激しい友達で、感情をほとんど出さなかった自分には彼女との出会いは大きな衝撃でした。泣きたいときは泣き、笑いたいときは笑う。それでいいんだな、と彼女を見て思いました。はじめて自分の感情を素直に出してケンカをしたときに、気持ちいいな、と思ったんです。私の考え方や生き方を変えてくれた人です」
シェアハウスで暮らしたときは、同居人たちとそれぞれの国の料理を作り合った。
「スペインの友達はパエリア、イタリアの友達はパスタを作ってくれました。じゃあ史恵、何か日本の料理を作ってよ、と言われたときに、自信を持って作れるものがなかったんです。そのことがずっと心にひっかかっていました」
ヨーロッパで過ごした1年はとても刺激的で、三好さんのこれまでの人生の中でも最高に楽しい時間となった。
「ヨーロッパでの経験がいまの仕事にも生かされています。何より、鮨の修業時代も、『あれだけ楽しかったんだから、いまは頑張ろう』と思えるくらいには、ヨーロッパの生活は楽しかったんです。
また、それまでは日本を好きだと思ったことがなかったのですが、海外に行ってはじめて日本って素晴らしいなと思いました。海外に触れたことで日本人としての誇りを持つことができました」
「和食を極めたい」と考え
「新ばし しみづ」に弟子入り
24歳で帰国した三好さんは、料理の基礎を学びたいと考える。海外で日本の料理を作れなかった自分。「いつかまた海外に行ったときに、和食を作れるようになっていたい」と思い、和食居酒屋で社員として働き始めた。
居酒屋では和食の基礎を板長に丁寧に教えてもらった。
「1つ1つ、習得すると給料が上がっていくシステムがあり、家に帰ってからも『かつらむき』などを必死に練習しました。盛り付け、火入れ、包丁の入れ方、1つ1つに歴史があり、和食の繊細さに魅力を感じました」
料理は楽しく、働くうちにもっと極めたいという思いが高まった。そんなとき、一緒にアルバイトとして働いていた先輩女性が三好さんに言った。
「あなたの居場所はここじゃないわよ」
その言葉に背中を押され、半ば勢いで居酒屋を辞めた。
そのとき、「仕事辞めちゃったんですよ」と話したのが、市場で仕入れの勉強をさせてもらった際に出会った「新橋 しみづ」の親方だった。親方は、三好さんに言った。
「じゃあうちにアルバイトで来れば?」
それを聞いた三好さんは、「魚の勉強をするには、鮨屋は最高じゃん!」と考えた。
思いついたら即行動に移さないと気がすまない性格だ。声をかけられた日の夕方にはしみづでアルバイトを始めた。
「そのときは、しみづがどんなお店なのかも知りません。親方はただの『鮨屋のおっちゃん』でした」
お店の掃除や皿洗い、配膳などをしながら、親方の仕事を見ていた三好さんは、1カ月後には「修業をさせてください!」と親方に弟子入りを申し出た。
「親方の仕事の仕方、佇まいを見て、『これだ!』と思ってしまったんです。鮨は代わりがきかない世界です。親方でなければ出せない味があり、その人が作る鮨だから来てくださるお客さんがいる。それがすごくカッコいいなと思いました」
鮨で生きていく。それは、28歳の決断だった。
しかし、その後に待ち受けている修業の厳しさを、このときの三好さんはまだ知らなかった。
後編では、修業時代から銀座に「鮨竹」を開業するまでの経緯を紹介する。
プロフィール
三好史恵(みよし・ふみえ)
銀座 鮨竹 大将
1978年、愛知県春日井市生まれ。東京のインテリア専門学校を卒業後、設計事務所に就職。3年ほど働いた後、1年間イギリスで過ごす。帰国後、和食居酒屋で働き、28歳のときに鮨店「新ばし しみづ」に弟子入り。8年間の修業を経て2014年に独立し、銀座7丁目に「銀座 鮨竹」を開業する。