チェさんショート

日本文化に憧れ、大学卒業後に日本で暮らすことを決断しました。

首都ソウルからバスで3時間ほど、韓国の南に位置する広域市・光州(こうしゅう)で私は生まれ育ちました。はじめて日本に触れたのは、小学生のときです。仲の良い友達がロックバンド「X JAPAN」のファンだったのです。1990年代初頭、当時はいまほど日韓の文化交流がなく、CDは海賊版しか手に入らないような時代。友達の家に遊びに行くと、ピンクの髪のhideのポスターが貼ってありました。派手だし、音楽もうるさいし、何なんだろう……というのが最初の印象でした。

高校生になると、国際的な賞をとった日本映画は韓国でも放映されるようになり、たまたま東野圭吾さん原作の映画『秘密』を映画館で観ました。そこに出演していた広末涼子さんに、私の目は釘付けになりました。

――かわいい! タイプ過ぎる!

あれは私の人生でも数少ない一目惚れの瞬間でした(笑)。映画の中に登場する日本の街並みも新鮮で、そこから日本に興味を持ち、日本語を勉強するようになりました。

ちなみに大学受験のときは、眠気を抑えるためにX JAPANの解散ライブを収録したアルバム「The Last Live」をひたすら聞いていました。激しい音楽で眠気を覚ましてくれる上に、言葉がわからないので邪魔にならない。まさに受験勉強にピッタリの音楽でした。

韓国伝統文化大学に進学し、日韓の文化の違いや日本の文化財保護法などを勉強しました。日本に行きたくなり、学生時代にまずはホームステイで1カ月間、奈良へ。美術館や神社仏閣をめぐり、もっと日本を知りたいと思うようになりました。
2年間の兵役を経て、卒業後の進路を考えたときに、やはり「日本に行きたい」と強く思いました。すでに26歳になっていましたが、どうしてもこのまま韓国で就職する未来が思い描けなかったのです。1年間のワーキングホリデーを申請し、2011年10月に今度は東京へ。

家賃は事前に振り込み、当面の生活費として4万円だけを握りしめて来ました。日本の物価の高さを知らなかったのです。すぐにお金が底をつき、中華料理店で皿洗いのアルバイトを開始。日本語を話せない私にできるアルバイトは限られていました。
その頃、日本人がボランティアで外国人に日本語を教えてくれる「日本語クラブ」に参加するようになって日本人との交流が増え、授業よりも飲み会で日本語を習得していきました(笑)。

最初はとにかく生きていくために必死でした。知っている人が1人もいない、言葉も通じない国で生活することの大変さ。いま振り返っても、あの頃の自分はよく頑張ったと思います。一方で、誰にも縛られることのない自由さもありました。日本での生活は楽しく、「自分がずっと憧れて見ていたドラマや映画のような生活ができている!」という高揚感もありました。

ワーキングホリデーの1年が終わり、日本に残るために聴講生として大学院に通い、その後、日本企業に就職しました。気が付けば、日本に来てもう12年。いまは外国にいる感覚はありません。
日本に来て良かった。韓国で就職していたら得られなかった多くの経験ができたことは、大きな財産になったと感じています。

おすすめの記事