廣川雅一

私の決断は、44歳のときに静岡県の御殿場(ごてんば)プレミアム・アウトレットに出店すると決めたことです。

ヒロカワ製靴の2代目として生まれ育ち、幼い頃は自宅に隣接する工場に入り浸って遊んでいました。朝早くから夜遅くまで働く父の姿を見ながら「自分もいつかここで働くのだろうな」と感じて過ごしました。成長するにつれて自然と仕事を手伝うようになり、高校卒業後、アルバイトから始まりその後入社に至りました。

誰よりも早く職場に行き、30人いた職人さんたちの仕事がしやすいように必要な道具を素早く準備・整備しながら少しずつ社員たちの信頼を勝ち取っていきました。毎月2000~3000足をお客さんに納品していたので納品日前後は多忙を極め、2トントラックのレンタルから商品の積み下ろし、手書きの伝票書きまでほとんどの作業を1人でこなしていきました。

スコッチグレインという自社ブランドの革靴を製造販売していたのですが、飛び込み営業で来た大手代理店の人の後押しで男性ファッション誌に広告を出稿したところ、すさまじい反響がありました。これを機に卸問屋を経由して全国100店舗以上の百貨店で取り扱いが始まるなど、販路を拡大していきました。ところが販路が広がれば広がるほど、商品数や在庫も増えていきます。するとこれまで消化販売があまりできなかったB級品、廃盤品や返品の数も毎月何百何千足と増えていき、アウトレット品扱いになる靴も増加の一途を辿っていきました。当初は会場を借りての自社セールや工場で行うガレージセールを繰り返していましたが、次第にやりくりに苦労するように。そんなとき、御殿場プレミアム・アウトレットから出店のお誘いをいただきました。

ちょうど常設の売り場を確保したいと思っていたタイミングだったため、出店を決意。海外のインポートブランドばかりが占める中、珍しい国産メーカーがアウトレットに入ったというのでテレビ局にも取り上げられました。2000年5月に20坪の店舗でオープンすると、またも大きな反響をいただくことができました。はじめてのアウトレット店舗運営でわからないことだらけでしたが、最初の1週間は毎日売上が倍々ゲームとなる大盛況。あまりにも売上がいいので、同時期にオープンを予定していた大阪府泉佐野市のりんくうタウンからも声がかかり、同年11月に42坪の店舗を出店することとなりました。

その後、大阪、表参道、東京スカイツリーなどにも店舗展開を進め、栃木県佐野市や岐阜県土岐市などのアウトレットにも出店、現在全国10店舗を運営しています。2017年には社長に就任し、2020年以降のコロナ禍では前年同月比50%の売上となるなど厳しい状況となりましたが、何とか今日まで営業を続けることができました。

スコッチグレインはグッドイヤーと呼ばれる特殊な製法を用いて、職人が1つ1つ丁寧に作り上げる自慢の革靴。ジャストサイズを選んで足を通すと空気が逃げる「シュッ」という音が鳴り、足に吸い付くような履き心地を感じていただけます。

コロナ禍で受けたダメージを現在5年計画で戻していこうとさまざまな施策を打ち出しているところ。父が立ち上げこだわってきたスコッチグレインをこれからも大切に守り続けていきたいと思います。


株式会社 ヒロカワ製靴 ホームぺージ


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