金さんショート

関東のある大学からいただいたスポーツ推薦を辞退し、一般入試で憧れの早稲田大学に挑戦することを決めました。

3人兄弟の末っ子で、外で走り回ってはケガをして帰ってくるような、やんちゃな子どもでした。小学生のときに地元の区代表選手として出場した陸上大会で好成績を収め、中学・高校では陸上部で長距離を走りました。しかし、高校2年のインターハイでは地区予選で惜しくも敗退。次こそはと猛練習した結果、練習のしすぎで貧血になってしまい、インターハイに出場するラストチャンスを逃してしまったのです。
全国大会に進んでいない、いわゆる無名の選手に、大学のスポーツ推薦は難しい。陸上を継続できるかどうかのピンチに陥りました。

――それでも、やっぱり大学に進学して陸上を続けたい。

陸上への思いを諦めることができなかった僕は、一般入試で早稲田大学に挑戦することを決めました。早稲田大学を選んだのは、当時のマラソン界のヒーロー、瀬古利彦さんの母校だからです。「憧れの瀬古さんの後輩になりたい!」と思いが受験の大きなモチベーションになりました。

しかし、そのタイミングで1校だけ関東の大学からスポーツ推薦のお声がけをいただいたのです。顧問の先生に辞退することを伝えると、「本当にいいのか?」と心配されました。でも、「自分は絶対に早稲田大学に行くんだ」という決意が揺らぐことはありませんでした。

とはいえ、それまで陸上ばかりでまったく勉強をしていなかったので、さすがに現役で合格するのは難しいだろうと考え、「1年だけ浪人させてほしい」と父に頭を下げました。父はしばらく悩んだ後で、「わかった。そこまで言うならやってみろ」と言ってくれました。
その父の言葉が、僕の闘志に火をつけました。部活を引退後、もう10月になっていましたが、そこから2月の受験までの4カ月間はひたすら猛勉強。その結果、なんと現役で合格することができたのです。

早稲田大学の陸上部には、高校時代に活躍した選手がたくさんいて、そんな人たちと一緒にトレーニングができるのは、夢のようでした。当時はまだ箱根駅伝はテレビ中継されておらず、いまほどメジャーではなかったのですが、やはり一番の目標は箱根駅伝の優勝です。高校時代までの駅伝は最長区間が10kmだったので、大学ではその倍の20kmになります。僕はもともと長距離が得意だったので、練習を重ねるごとにどんどん記録が伸びていきました。
そんなときに監督から「上り坂は得意か?」と聞かれたので、地元にも坂が多かったことを思い出し、「(たぶん)得意です」と答えたところ、往路5区を任されることに。神奈川県の小田原から芦ノ湖まで、ひたすら上り坂が続く、箱根駅伝で最も過酷と言われるコースです。そこで僕は4年間で2度区間1位を獲り、3年生のときは区間新記録を達成。チームも優勝することができました。

卒業後は実業団からの誘いもありましたが、一般応募でリクルートに入社。当時の江副浩正社長に「陸上をやらせてほしい」と訴え、陸上部を創設してもらい、後にその陸上部は小出義雄氏が監督を務め、有森裕子選手や高橋尚子選手を輩出することになります。
僕自身は、現役を引退後、小出監督が退任した1995年から陸上部の監督を務めました。その後、2007年にマラソンブームが起こる少し前からランニングのクラブチームを作り、いまは市民ランナー向けのコーチをしながら、解説などの仕事もしています。

早稲田大学に一般入試で挑戦したことは、いま振り返ってもかなり大きなチャレンジでした。でも、早稲田の陸上部に入部できたことが、その後の世界を大きく広げてくれたので、あのとき妥協せず挑戦して良かったなと思います。マラソンを続けてきた僕にとって、楽をするという選択肢はありません。たとえ苦しくても、難しい方の道を選ぶ。その決断は必ず明るい未来につながると思っています。

(構成/尾越まり恵)

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