これまでの人生を振り返って、大きな決断が2つあります。1つは、白髪染めをやめたこと。もう1つが、NHKを退職したことです。
大学3年生のとき、先輩に「NHKのアナウンサースクールがあって、面接の練習にもなるから行ってみるといいよ」と薦められて、3カ月ほど通いました。声の出し方や原稿の読み方などの基礎的な内容を教えていただく中で、「言葉で伝える」というアナウンサーの仕事に魅力を感じました。そこで、NHKの入社試験を受け、私はアナウンサーになりました。
報道の現場は1分1秒単位のタイムスケジュールで動いています。現場にいるアナウンサーの先輩や記者の方たちは真剣さゆえに語気を強め、声のボリュームも上がっていく。ピリっとした緊張感が漂っていて、「テレビの報道アナウンサーとは、こういう雰囲気の中で仕事をするんだな」と思いました。その中でいかに周囲に気を取られず、自分がいまやるべきことに集中できるかが試されている、と感じたのを覚えています。
最初に読んだニュースは忘れもしない、兵庫に拠点を置くのある暴力団組長が射殺されたというニュースでした。
その後、1997年には神戸連続児童殺傷事件、翌98年に和歌山毒物カレー事件、2001年には附属池田小事件など、当時関西では日本を揺るがす大事件が多く起きていました。そのような場所でニュースを読む責任の重さを感じましたし、このエリアのことをもっとよく知らなくてはいけない、という気持ちになりました。
アナウンサーは、たとえ5分のニュースであっても、スタジオに入ったら1人。誰も助けてくれません。先輩にも「助けたいけど助けてあげられないから、頑張れよ」と言われていました。
「準備をする段階では、自分はまだまだだと思って準備をしっかりすること。でも、いざ本番、マイクの前に立ったら、『自分が一番できるんだ』と思って原稿を読みなさい」
これは先輩からよく言われていた言葉ですが、後に私も同じことを後輩に伝えていました。視聴者の方には、ニュースを読む人が新人かベテランかなんて、まったく関係のないことです。「新人だから」という甘えは許されません。
ここで私は1つの大きな決断を迫られることになります。実は、入社2年目の和歌山毒物カレー事件を担当した頃から非常に多忙を極め、白髪が目立つようになり、20代後半から白髪染めで髪の毛を染めていました。
東京のニュースセンターは照明がすごく明るいんです。ある日、自分が担当したニュース番組を録画して見た私は衝撃を受けました。白髪染めで染めた自分の髪がものすごく茶髪に見えたのです。
誰かに「髪の毛が茶色い」、「染め直せ」などと言われたわけではありません。ただ、自分自身が「このままだと居心地が悪いな」と思ったんです。
そこから、さらに黒く染めるようになりました。
でも、月に1回染めていると、だんだん染まりにくくなっていきます。そんなとき、いつも通っていた美容室の美容師さんに言われました。
「白髪染めを長く続けてきて髪の毛が傷んでいるので、もうやめたほうがいいと思いますよ」
1998年から8年間、白髪染めを続けていたので、髪の毛はかなりダメージを受けていました。とはいえ、当時私はまだ35歳。グレーヘアになることには不安がありました。
――どうしよう……この年で白髪になって大丈夫かな……。
私は悩みました。
たかが髪の毛を染めるか染めないかで悩むなんて、大げさだと思うかもしれません。でも、年を重ね、白髪が増えてきたら多くの方が白髪染めをします。若くて白髪が多い人は「年をとって見えるから染めたほうがいいよ」と周囲から言われることもあるでしょう。暗黙のうちに、黒であることを求められているような雰囲気がある。そんな社会の中で、僕自身もそれまで白髪は染めるべきだと思っていたのです。
でも、美容師さんに「やめたほうがいい」と言われたことがタイミングだと思い、白髪染めをやめようとその日に決めました。
その後、アナウンサーの先輩の1人にだけ打ち明けました。
「実は8年近く白髪染めをしていてだいぶ傷んできました。自然体でいきたいと思って、染めるのをやめたんです。いいでしょうか」
先輩の返事は、とてもシンプルでした。
「ええやん」
髪の毛が伸びるにつれ、私はみるみるグレーヘアになっていきました。お辞儀をするたびに生え際の白髪が映ります。
「どんどん白髪になっていくけど大丈夫なのか」
「あの人は病気なのか」
「いじめられているのか」
当時、インターネット上では、私のことが話題になっていたようです。
ある日同僚から「登坂ちゃん、白髪のことが話題になっているらしいよ」「なんか麿(まろ)って呼ばれているらしいよ」と聞かされて、その事実を知りました。
視聴者が髪の毛に気を取られて肝心のニュースがきちんと伝わらないのではないかと不安にもなりましたが、白髪をきっかけに私自身の認知度が高まったのは事実です。外見の変化への反応はそのうち落ち着くので、「自分自身の伝える力さえあればきっと大丈夫だろう」「ニュースを見てくれる入り口になるのであれば、それもいいのかな」と思い直しました。
先輩にしか相談していなかったので、上層部から「染めたほうがいい」などと言われるかもしれないと思っていましたが、結果的に誰からもそういったことを言われることはありませんでした。
もし白髪染めを続けていたとしても、自然な黒髪にはなりません。おそらく染め続けることはできず、いつかやめざるを得なかったと思います。私はたまたまそのタイミングが35歳だったのです。
1人1時間の持ち時間を4人のアナウンサーで回していく。最新の映像が入ってきたら説明し、会見が始まれば中継してその内容を要約する。経験と実力が問われる過酷な現場でしたが、「いま起こっていることに比べたら、自分自身にできることは些細なことだ」と感じていました。
災害報道の目的は、1人でも多くの命を守ること。でも、届けられずに失ってしまったたくさんの命がありました。あのとき、報道番組を担当していたアナウンサーたちは肩を落とし、自責の念に苦しんでいました。私もその気持ちはよく分かりました。でも、打ちひしがれているだけではダメだ、いまは踏ん張らなくてはならない、と自分を鼓舞していたのを覚えています。
NHK時代の私は、ライフ(人生・生活)の中で仕事を占める割合があまりに大きく、ライフを円グラフにしたときにほとんどがワークという状態でした。公共放送なので、少しでも世の中の役に立ちたいという思いで仕事に打ち込んできたので、そこに悔いはありません。
でもある日、妹ががんになり、症状が悪化したとき、私に言ったのです。
「お兄ちゃん、仕事もいいけど体を大事にしてね」
その後、妹は他界し、兄妹の時間をあまり持たずにきてしまったことを、少し後悔したりもしました。
そんなときに独立を後押ししてくれる知人との出会いもあり、思い切ってNHKを退職することを決めました。
2018年1月にNHKを離れ、いまはフリーアナウンサーとしてニュースを読むほか、テレビのバラエティー番組に出演したり、YouTubeやTikTokの配信をしたりしています。
TikTokなんて、最初はさっぱりわかりませんでした。
新しいことに挑戦するのは勇気がいります。でも、せっかく独立したのだから、「どこまでできるだろう」とか「ここまでやらなくちゃいけない」なんて自分で思い込まずに、「とりあえずやってみよう」と思って踏み出した結果、世界がぐっと広がりました。
最近は街を歩いていると中学生や高校生から声をかけられることが増えました。先日も、2歳と1歳になる娘2人と散歩をしていたら、高校生が近寄ってきて、「登坂さんですよね? この前のバラエティー番組見ました!」と言われてビックリ。娘たちもキョトンとしていました(笑)。
舞台やドラマで俳優業にも挑戦しています。同じ「伝える」という表現であっても、アナウンサーと俳優ではまったく違います。いまはただ、わからないことが面白い。「これでいいのかな?」と思いながら、1つ1つ感じたり見つけたりしながら、新しい挑戦を楽しんでいます。
娘たちと過ごす時間もとても大切で、独立後はライフの一部分にワークが入っている感覚になりました。プライベートも仕事も密接につながり合っているので、その時々で裏になったり表になったりしてうまくバランスをとりながら、これからの人生を楽しんでいけたらいいなと思っています。
(文/尾越まり恵、表記のない写真すべて/齋藤海月)
大学3年生のとき、先輩に「NHKのアナウンサースクールがあって、面接の練習にもなるから行ってみるといいよ」と薦められて、3カ月ほど通いました。声の出し方や原稿の読み方などの基礎的な内容を教えていただく中で、「言葉で伝える」というアナウンサーの仕事に魅力を感じました。そこで、NHKの入社試験を受け、私はアナウンサーになりました。
和歌山放送局に配属され、アナウンサーデビュー
1997年、最初に配属されたのは和歌山放送局。大阪のニュースセンターではじめてテレビのニュースを読んだのは、その年の9月のことでした。報道の現場は1分1秒単位のタイムスケジュールで動いています。現場にいるアナウンサーの先輩や記者の方たちは真剣さゆえに語気を強め、声のボリュームも上がっていく。ピリっとした緊張感が漂っていて、「テレビの報道アナウンサーとは、こういう雰囲気の中で仕事をするんだな」と思いました。その中でいかに周囲に気を取られず、自分がいまやるべきことに集中できるかが試されている、と感じたのを覚えています。
最初に読んだニュースは忘れもしない、兵庫に拠点を置くのある暴力団組長が射殺されたというニュースでした。
その後、1997年には神戸連続児童殺傷事件、翌98年に和歌山毒物カレー事件、2001年には附属池田小事件など、当時関西では日本を揺るがす大事件が多く起きていました。そのような場所でニュースを読む責任の重さを感じましたし、このエリアのことをもっとよく知らなくてはいけない、という気持ちになりました。

はじめての現場でも緊張しない、新人らしくない新人だった
アナウンサーは、たとえ5分のニュースであっても、スタジオに入ったら1人。誰も助けてくれません。先輩にも「助けたいけど助けてあげられないから、頑張れよ」と言われていました。
「準備をする段階では、自分はまだまだだと思って準備をしっかりすること。でも、いざ本番、マイクの前に立ったら、『自分が一番できるんだ』と思って原稿を読みなさい」
これは先輩からよく言われていた言葉ですが、後に私も同じことを後輩に伝えていました。視聴者の方には、ニュースを読む人が新人かベテランかなんて、まったく関係のないことです。「新人だから」という甘えは許されません。
突然グレーヘアになったことがネットで話題に
2003年、NHKに入局して7年目に東京に異動になり、2006年から月~金曜日の正午ニュースを担当することになりました。ここで私は1つの大きな決断を迫られることになります。実は、入社2年目の和歌山毒物カレー事件を担当した頃から非常に多忙を極め、白髪が目立つようになり、20代後半から白髪染めで髪の毛を染めていました。
東京のニュースセンターは照明がすごく明るいんです。ある日、自分が担当したニュース番組を録画して見た私は衝撃を受けました。白髪染めで染めた自分の髪がものすごく茶髪に見えたのです。
誰かに「髪の毛が茶色い」、「染め直せ」などと言われたわけではありません。ただ、自分自身が「このままだと居心地が悪いな」と思ったんです。
そこから、さらに黒く染めるようになりました。

2006年当時。白髪染めで染めた髪は紫のようにも見える(本人提供)
でも、月に1回染めていると、だんだん染まりにくくなっていきます。そんなとき、いつも通っていた美容室の美容師さんに言われました。
「白髪染めを長く続けてきて髪の毛が傷んでいるので、もうやめたほうがいいと思いますよ」
1998年から8年間、白髪染めを続けていたので、髪の毛はかなりダメージを受けていました。とはいえ、当時私はまだ35歳。グレーヘアになることには不安がありました。
――どうしよう……この年で白髪になって大丈夫かな……。
私は悩みました。
たかが髪の毛を染めるか染めないかで悩むなんて、大げさだと思うかもしれません。でも、年を重ね、白髪が増えてきたら多くの方が白髪染めをします。若くて白髪が多い人は「年をとって見えるから染めたほうがいいよ」と周囲から言われることもあるでしょう。暗黙のうちに、黒であることを求められているような雰囲気がある。そんな社会の中で、僕自身もそれまで白髪は染めるべきだと思っていたのです。
でも、美容師さんに「やめたほうがいい」と言われたことがタイミングだと思い、白髪染めをやめようとその日に決めました。
その後、アナウンサーの先輩の1人にだけ打ち明けました。
「実は8年近く白髪染めをしていてだいぶ傷んできました。自然体でいきたいと思って、染めるのをやめたんです。いいでしょうか」
先輩の返事は、とてもシンプルでした。
「ええやん」
髪の毛が伸びるにつれ、私はみるみるグレーヘアになっていきました。お辞儀をするたびに生え際の白髪が映ります。
「どんどん白髪になっていくけど大丈夫なのか」
「あの人は病気なのか」
「いじめられているのか」
当時、インターネット上では、私のことが話題になっていたようです。
ある日同僚から「登坂ちゃん、白髪のことが話題になっているらしいよ」「なんか麿(まろ)って呼ばれているらしいよ」と聞かされて、その事実を知りました。
視聴者が髪の毛に気を取られて肝心のニュースがきちんと伝わらないのではないかと不安にもなりましたが、白髪をきっかけに私自身の認知度が高まったのは事実です。外見の変化への反応はそのうち落ち着くので、「自分自身の伝える力さえあればきっと大丈夫だろう」「ニュースを見てくれる入り口になるのであれば、それもいいのかな」と思い直しました。
先輩にしか相談していなかったので、上層部から「染めたほうがいい」などと言われるかもしれないと思っていましたが、結果的に誰からもそういったことを言われることはありませんでした。
もし白髪染めを続けていたとしても、自然な黒髪にはなりません。おそらく染め続けることはできず、いつかやめざるを得なかったと思います。私はたまたまそのタイミングが35歳だったのです。

白髪染めをやめてグレーヘアになった。2008年に撮影(本人提供)
震災報道の責任の重さを実感
アナウンサー人生の中でも、2011年の東日本大震災の報道チームに入ったことは、非常に大きな出来事でした。当時私は札幌放送局に赴任しており、震災の2~3日後に東京に入りました。1人1時間の持ち時間を4人のアナウンサーで回していく。最新の映像が入ってきたら説明し、会見が始まれば中継してその内容を要約する。経験と実力が問われる過酷な現場でしたが、「いま起こっていることに比べたら、自分自身にできることは些細なことだ」と感じていました。
災害報道の目的は、1人でも多くの命を守ること。でも、届けられずに失ってしまったたくさんの命がありました。あのとき、報道番組を担当していたアナウンサーたちは肩を落とし、自責の念に苦しんでいました。私もその気持ちはよく分かりました。でも、打ちひしがれているだけではダメだ、いまは踏ん張らなくてはならない、と自分を鼓舞していたのを覚えています。

東日本大震災を教訓にして、その後の災害報道の在り方も変化した
40代半ばで考えた、「この先の人生をどう生きるか」
言葉で情報を伝えるアナウンサーの仕事に誇りを持ち、NHKに勤務して20年。40代半ばになったとき、この先自分はどう生きていくのか、漠然と考えるようになりました。NHK時代の私は、ライフ(人生・生活)の中で仕事を占める割合があまりに大きく、ライフを円グラフにしたときにほとんどがワークという状態でした。公共放送なので、少しでも世の中の役に立ちたいという思いで仕事に打ち込んできたので、そこに悔いはありません。
でもある日、妹ががんになり、症状が悪化したとき、私に言ったのです。
「お兄ちゃん、仕事もいいけど体を大事にしてね」
その後、妹は他界し、兄妹の時間をあまり持たずにきてしまったことを、少し後悔したりもしました。
そんなときに独立を後押ししてくれる知人との出会いもあり、思い切ってNHKを退職することを決めました。
2018年1月にNHKを離れ、いまはフリーアナウンサーとしてニュースを読むほか、テレビのバラエティー番組に出演したり、YouTubeやTikTokの配信をしたりしています。
TikTokなんて、最初はさっぱりわかりませんでした。
新しいことに挑戦するのは勇気がいります。でも、せっかく独立したのだから、「どこまでできるだろう」とか「ここまでやらなくちゃいけない」なんて自分で思い込まずに、「とりあえずやってみよう」と思って踏み出した結果、世界がぐっと広がりました。

NHKの先輩からは「独立して表情が柔らかくなった」と言われた
最近は街を歩いていると中学生や高校生から声をかけられることが増えました。先日も、2歳と1歳になる娘2人と散歩をしていたら、高校生が近寄ってきて、「登坂さんですよね? この前のバラエティー番組見ました!」と言われてビックリ。娘たちもキョトンとしていました(笑)。
舞台やドラマで俳優業にも挑戦しています。同じ「伝える」という表現であっても、アナウンサーと俳優ではまったく違います。いまはただ、わからないことが面白い。「これでいいのかな?」と思いながら、1つ1つ感じたり見つけたりしながら、新しい挑戦を楽しんでいます。
娘たちと過ごす時間もとても大切で、独立後はライフの一部分にワークが入っている感覚になりました。プライベートも仕事も密接につながり合っているので、その時々で裏になったり表になったりしてうまくバランスをとりながら、これからの人生を楽しんでいけたらいいなと思っています。
(文/尾越まり恵、表記のない写真すべて/齋藤海月)
登坂淳一(とさか・じゅんいち)
フリーアナウンサー/タレント
1971年、東京都板橋区出身。法政大学経済学部を卒業後、1997年にNHKに入局。和歌山、東京、大阪、札幌、鹿児島の放送局でニュース番組のアナウンサーを務める。2018年1月にNHKを退局。現在はフリーアナウンサー、タレントとして活動中。プライベートでは2歳と1歳の子を育てる父親でもある。
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