小須田さんショート

21歳のとき、自動車の自損事故で右足を切断。2015年からパラスポーツ競技を始め、パラリンピックで金メダルを目指す、と決めました。

子どもの頃の夢はサッカー選手。しかしプロになれるレベルではないと悟り高1で辞めてからは、特にスポーツに打ち込むことはありませんでした。夢中になれるものがなく、指定校推薦で進学した大学も2年で中退。そこからは、給料の良かった引越のアルバイトをしながら生活していました。

そのまま社員となり、引越運送の仕事をしていた21歳のとき、3月の引越繁忙期に疲れから居眠り運転をして、中央分離帯に乗り上げる自損事故を起こしてしまいました。事故の瞬間にまず思ったのは、「お客様の荷物をどうしよう!」ということ。意識はわりとはっきりしていて、「俺、このまま死ぬのかな……」と思って目を閉じてみたのですが、直感的に「これ、絶対死なないわ」と思って、目を開けたのを覚えています。

すぐに病院に運ばれて手術をして、結果的に右足の膝上から切断することになりました。助手席に乗っていた後輩社員は奇跡的にほぼ無傷で、自分も右足以外に損傷はなく、何より命が助かっただけでも幸運だったと思います。

退院後は家で静養し、元気になってからは松葉杖で生活しながら、半年間ほど遊んでいました。落ち込んだところで、足が戻って来るわけではありません。あの年の夏、人生でいちばん多く海に行きました(笑)。自分がそんな感じで明るかったので、家族や友人も、悲観的な雰囲気にはならなかったですね。

2013年の冬からは職場に戻り、事務職として働くようになりました。義足を作ってはみたものの、なかなか足になじまず、その頃はほとんどが松葉杖での生活でした。
その後、転機となったのは2015年の夏、ドイツの義足メーカーが主催する、義足で走るイベントがあると理学療法士さんに聞き、参加してみることにしたのです。義足をつけて走ってみたら楽しかった! それで、本格的にスポーツをやってみたいと思ったのですが、競技用の義足の製作には80万円近くの費用がかかってしまいます。金銭的に難しそうだなと思っていたときに、イベントに講師で来ていたパラスポーツの第一人者である山本篤さんから連絡をいただき、競技用の義足を貸してもらえることに。篤さんと一緒に走る練習をするようになり、2016年から100m、200m、走り幅跳びの競技で日本パラ陸上競技選手権大会に出場するようになりました。

よりスポーツに集中できる環境を整えたいと考え、2016年には障がい者雇用を積極的に進めていたオープンハウスグループに転職。最初は競技をしながら事務作業や営業サポートなどの業務にも携わり、宅建の資格も取得しました。いまは競技活動費を支援していただきながら、100%競技に集中させてもらっています。

陸上とスノーボードの二刀流をこなす篤さんに影響を受け、2018年の冬からは自分もスノーボードを始めることに。東京2020パラリンピックでは陸上、北京2022冬季パラリンピックではスノーボードで出場。どちらも7位入賞という成績でした。北京が終わってからは、より最短でメダルを目指すために、より自分に向いていて、海外の強豪選手と渡り合えるスノーボードに集中することに決めました。

僕はよく「足がなくなって良かった」という言葉を口にするのですが、これは強がりではなく、本気でそう思っています。もし事故に遭っていなければ、スポーツは始めていなかったでしょうし、いまの生活はすべて足がないことで成り立っていることばかりです。
いまの目標は、2026年にイタリアのミラノ・コルティナダンペッツォで開かれる冬季パラリンピックで金メダルを獲ること。そこにしっかりと照準を合わせ、練習を重ねている毎日です。

(構成/尾越まり恵)

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