山下さんショート

2007年、家業のお好み焼き専門店「ゆかり」に入社し、4代目社長になることを決めました。

私の実家は関西を中心にお好み焼チェーン「ゆかり」を経営しています。1950年に甘味処としてスタートし、2代目となる祖父の代からお好み焼き専門店となりました。子ども時代からゆかりのお好み焼きを食べて育った私にとって家業はとても身近な存在でした。しかし、高校時代に店舗でアルバイトをすると、スタッフに「社長の息子」だと気を使われ、ミスをしても自分だけ注意されない。この環境にいたら自分がダメになると思っていたところに、家族と口論になることがあり、家出同然で飛び出しました。その時点で、後を継ぐ選択肢は頭の中から消えました。

事業承継を考えなかったもう1つの理由は、音楽活動をしたかったからです。高校時代からギターを始め、メタルコアというジャンルでバンド活動に熱中。卒業後はメジャーデビューを目指しながら、ライブハウスやスタジオ、音楽レーベルなどで働きました。
しかし、安い賃金でがむしゃらに働き続けた結果、栄養失調で倒れてしまいます。インディーズでCDは出せたものの、年齢的にもこの先アーティストを目指す限界を感じ、バンドを解散。音楽から離れることを決断しました。その後は小売業の会社で、100円ショップのレジ打ちや品出し対応などをして働いていました。

小売りの仕事は楽しく、この業界で独立しようか、とも考えていた頃、子どもの頃からの親友が、疎遠になっている間に亡くなっていたことを知ります。そのとき、幾度となく彼が私に言ってくれた言葉を思い出しました。

「あなたは家業は敷かれたレールだと言うけれど、それは違う。レールを敷くのはあなたやで」

彼が伝えたかったことは、何だったのだろうか。
会話をした当時はまだ若く、反発して気に留めようともしなかった彼のこの言葉から、家業を継ぐ意味を自問自答するようになりました。そうして考えた結果、ゆかりの事業を拡大していくとともに、大阪の食文化を継承し広めていくことが自分の使命である、という考えに辿りついたのです。

しかし、もう二度と戻らないと啖呵(たんか)を切って家を飛び出してきた身です。まず、長かった髪を丸刈りにし、スーツを着て、数年ぶりに実家を訪れ、親に頭を下げました。怒られるだろうと覚悟をしていたのですが、父の言葉は予想に反して温かいものでした。

「やっと戻って来たか」

2007年にゆかりに入社し、自分の強い希望で、直営店ではなくフランチャイズ店のスタッフとしてスタートさせてもらうことにしました。フランチャイズ店から見た理想の本部とはどんなものかを知りたかったからです。

2016年、32歳で社長に就任。その4年後にコロナ禍に突入します。休業や時短営業を強いられる中、家賃や光熱費、人件費など毎月3000~4000万円が消えていきました。

――この状況が、一体いつまで続くのだろうか。

6月に政府からコロナ融資の救済策が発表されるまでは、正気ではいられませんでした。社長になってから、借り入れが多い財務体制を見直し、借金の返済を進めていたことが功を奏して何とか生き延びることができましたが、もし多額の借金を抱えたままだったら、倒産していたかもしれません。

ゆかりは店舗で直接お客様にお好み焼きを提供することにこだわってきましたが、外的要因に左右されない強い経営基盤を作るため、コロナ禍をきっかけにECサイトを開設し冷凍のお好み焼きやレトルトパウチのどて焼、オリジナルの調味料の販売を始めました。さらに海外展開にも挑戦し、いまは香港とシンガポールで販売しており、年内にはアメリカにも進出予定です。物販が成功すれば、現地での店舗出店の道も開けます。大阪のおいしい食文化をこれからどんどん世界に広めていきたいと思っています。

(構成/尾越まり恵)

株式会社ゆかり ホームページ

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