さとしくんショート

2022年3月、脳腫瘍手術の後遺症と見られるてんかん発作が起こり、企業に一般採用してもらうことが難しくなりました。政府が交付する「障害者手帳」を取得し、精神障がい者枠で働くことを決めました。

自分でも信じられないのですが、2012年頃から2019年までの記憶がほとんどありません。大分市の化学メーカーの防災警備課で警備や消防の仕事をしていた2010年、会社の健康診断で白血球の数値が正常値よりも2桁以上高く、白血病の疑いで再検査の通知を受け取ったのはかすかに覚えています。その後、おそらく検査に行っておらず、記憶が戻ったのは、2019年10月の病室のベッドの上でした。

親や友人から聞いた話によると、2012年頃は仕事や地域の消防団の活動には参加していたものの、次第に無断欠勤が増えていたようです。1人暮らしだったのですが、食事はどうしていたのか、買い物には行っていたのか、まったくわかりません。
2018年、所属していた野球チームがいつも練習しているグラウンドの駐車場の車内で倒れているのを発見されました。そこからすぐに両親が暮らす福岡県北九州市に引き取られ、複数の病院にかかり、白血病に詳しい医師にもかかったものの、なかなか病名や原因が判明せず。2019年9月、大学病院の内科医に「脳に異常があるのでは」と脳神経外科を紹介され、そこで脳腫瘍(髄膜種)が発覚。すでに直径6cmもの大きさになっていました。

記憶が戻ったのは、13時間もの難しい手術を終えた数時間後のことでした。強い耳鳴りと、包帯でぐるぐる巻きにされた頭部。
ここはどこなのか? 何が起こったのか?
すぐには現実を受け入れることができませんでした。空白の期間に何があったのか、親や友人に聞き、少しずつ事態を把握していきました。

退院して1年ほど休養したのち、アルバイトから少しずつ仕事を再開。ところが、フルタイムで働けるようになっていた2021年3月16日、早朝にてんかん発作が起こり、救急搬送。またもや、目が覚めたら病室のベッドの上にいました。
数日で退院したものの、勤めていた会社は辞めることに。てんかん発作により、一般社員として企業に就職することが難しくなりました。

記憶を失っていた時期に運転免許は失効しており、大好きだった車にも乗れない。気分転換もできず、うつ病を発症し、強い睡眠薬がないと眠れない。脳腫瘍との関連はわかりませんが、右耳は聴力を失い、耳鳴りが続いている。それまでは警備・消防スタッフとして、人を助ける仕事をしていたのに、いまの自分は人に助けてもらわなければ、何もできない。何もかもが、以前とはまるで変わってしまった。
それは、絶望の日々でした。

状況が少し好転したのは、自治体の勧めで家の近くの就労移行支援事業所「スプライフ」に通い始め、障害者手帳を申請してからです。てんかんは3種類ある障害者手帳の中の「精神障害者保健福祉手帳」の対象とされています。いまは就労訓練のプログラムや企業実習を受けており、最大2年の支援期間の後は、企業の障がい者雇用枠で働けたらと考えています。

企業の実習に行って感じるのは、企業側もまだまだ障がい者を受け入れる体制ができていないということ。障がい者といっても、1人1人状況は違い、一括りにはできません。当たり前のことが、当たり前にできない人がいる。その人が何を望んでいるのか、何ならできるのか、どうか寄り添ってほしいと願います。

2022年3月には2度目のてんかん発作が起きました。怖がって守りに入っていても仕方ない。いまは「起こるなら起これ」という気持ちでいます。
2019年に記憶を取り戻してから、ずっと下を向いて生きてきました。でも障がい者雇用で働く選択肢が見えたことで、顔を上げ、正面を向くことができた。失ったもの、できなくなってしまったものを追い求めるよりも、いま自分にできることに向き合っていきたいと思っています。

就労移行支援事業所スプライフ ホームページ

おすすめの記事