31歳で上京、港区で美容室を開業
牧野さんが「エピテーゼ」の製作技術を教えるヒューマンアートスクールを立ち上げたのは2007年。以降、容姿に悩みを抱える人々にエピテーゼを届けるため、製作者を増やし認知を広げる活動を続けてきた。
前編でも紹介した通り、牧野さんがこの活動に力を入れている背景には、「容姿を整えることは、人が命をつなぐための重要な行為である」という思いがある。
「乳がんで胸を切除して、ものすごくショックで生きていくことが嫌になる人もいます。第三者は『大丈夫よ、洋服を着たらわからないから』と言いますよね。でも、それは全然励ましになっていません。経験した人の本当の苦しみは、誰にもわからないんです。たとえ同じ病気でも、価値観が違えば痛みも違う。それをわかろうと思っても難しいので、少しでもそのつらさがなくなるような解決策を見つけよう、と考えて私は動いているだけなんです」
そんな牧野さんがエピテーゼと出会ったのは、40歳を過ぎてからだ。牧野さんはそれまで美容師として働いていた。
北海道むかわ町に生まれ、母親が経営する美容室の跡取りとして育てられた。高校2年生から通信教育で美容技術を学び、卒業後のインターンシップを経て免許を取得。しかし、ちょうどその頃、両親が離婚して母親が美容室を畳み東京に引っ越したため、牧野さんは札幌の美容室に就職した。
20代はずっと同じ美容室に勤め続け、美容師のコンテストで優勝するなど結果も残した。次のステージに進むため、牧野さんは31歳で上京し、東京・港区の六本木と青山に美容室を開業した。地域柄、「ハイエンドなお客様が多く、特殊な環境だった」と牧野さんは振り返る。
美容室にはエステルームも併設しており、お客様はカットとカラーリングに加えてエステの施術を受けて帰りに化粧品を購入し、20万円を払っていくような世界だった。
「お店に置いてある週刊誌をお客様に渡したら、『わたくし、このような低俗なものは読みませんのよ』とおっしゃるわけです。『何がよろしいですか?』と伺うと、『そうね……、徒然草か日本書紀を』、と言われて、青山ブックセンターまで走ったこともありました。
当時80代のお客様で『昔はね、よくマッカーサーにお茶に誘われたのよ』なんて言う人もいました(笑)」
30代はひたすら美容室経営に打ち込んだ。しかし激務が続いた結果、心身を壊してしまう。40歳で美容室を畳むことを決断した牧野さんは、「うつ病を治すには環境を変えるしかない」と考え、知人が暮らすアメリカのロサンゼルスへと旅立った。
カリフォルニア大学でエピテーゼを学ぶ