「障がいの有無にかかわらず、すべての子どもの成長を支援したい」と考え、1999年に大阪府吹田市の障がい者施設を退職し、起業することを決めました。
泌尿器科医の父が地元、東大阪市の障害者療育センターの立ち上げに携わり、心理職の母とともに初代センター長を務めていたため、子どもの頃から障がい者と関わる機会が多くありました。
療育センター設立直後、私が高校生のときに、父に乳がんが発覚。父は病床で私に「作業療法士になったらいいよ」と伝えました。子どもの作業療法は遊びであり、子どもは遊びの中で育つ。専門職のスキルは、日常に生かさなければ意味がない。知っているのにやらない人は、知らない人より悪い。この3つを私に言い残して父は逝きました。
父の言葉を胸に、作業療法士の専門学校に進学。資格を取得して卒業後は公務員として吹田市が運営する肢体不自由児の通園施設に勤めました。作業療法の現場で働きながら、父の言う通り、特別な訓練やリハビリテーションよりも、日常の遊びの中で子どもは育つのだということを実感しました。
日常的な遊びを追求し、現場で実践した結果を『遊びを育てる』(協同医書出版社)という書籍にまとめて出版。本を書いて気づいたことは、遊びの中で育つことに、障がいの有無は関係ない、ということでした。この事実を多くの人に伝えたいと思ったのですが、16年も市の職員として勤務していると、市の障がい児療育はどうあるべきか、制度を決める側になっていきます。障がい児の対応を考えると、どうしても健常者との線を引かなくてはならなくなる。
――私は線を引きたくない。
そう強く思って、退職を決意しました。
公務員の安定した環境を捨てることに、周囲からは猛反対されました。でも、父の「知っているのにやらない人は、知らない人より悪い」という言葉に背中を押され、1999年に現在の共同代表とともにピーエーエスを起業。障がいの有無に関係なく、すべての子どもを対象にした陶芸や絵画、音楽療法などの教室運営事業を始めました。自閉症スペクトラムの子どもが、綺麗な色の絵を描くのを見て、障がいのない子どもも表現が豊かになるなど、相互関係の中で育ち合う環境ができました。
しかし、当時はまだ障がい児がこのような習いごとに有料で通うことが一般的ではなかったために、なかなか収益にはつながりません。最初は療育で使う木のおもちゃを仕入れて販売し、生計を立てていました。そのうち、知人から座位保持装置と呼ばれる、医師の処方を受けて作る障がい者向けの椅子の技術を教えてもらい、挑戦してみることに。座るだけでリハビリ効果を得られるこの椅子の開発に、それまで私が培ってきた知識も技術も感覚もすべてを生かすことができたんです。教室運営では届けられる人に限界があるけれど、この椅子に自分の思いを託せば、多くの人に届けられる、と思いました。作り始めると評判になり、注文が増えため、「椅子開発を軌道に乗せて、いつかまた場所を作ろう」と誓い、一旦教室を締め、椅子の開発に集中することにしました。
そもそも、障がいの有無を超えることを目指して起業しました。椅子を作っているうちに、障がい者用に特化せず、自分が見つけた心地よさを一般的な商品として形にしたいと考えるようになります。そこで、背筋がピンとなることから「p!nto(ピント)」という名前で椅子の上に置くクッションを開発。2018年には東京の南青山に販売店をオープンしました。p!ntoのクッションは、メディアでたびたび取り上げられ、発売から11年で累計販売数48万台を突破しました。
いまは、三重県御浜(みはま)町に障がい者も一般客も一緒に快適に過ごせる「作業療法士が作る宿」の開発を進めています。みんなで星を見たり、海に釣りに行ったり、アクティビティも企画し、利用者全員が笑顔になれるような宿泊施設を目指します。
父の言葉から始まった私の作業療法士人生。自ら行動を起こした結果、多くの縁に恵まれ、ここまで来ることができました。私の夢は、これからも続いていきます。
(構成/尾越まり恵)
泌尿器科医の父が地元、東大阪市の障害者療育センターの立ち上げに携わり、心理職の母とともに初代センター長を務めていたため、子どもの頃から障がい者と関わる機会が多くありました。
療育センター設立直後、私が高校生のときに、父に乳がんが発覚。父は病床で私に「作業療法士になったらいいよ」と伝えました。子どもの作業療法は遊びであり、子どもは遊びの中で育つ。専門職のスキルは、日常に生かさなければ意味がない。知っているのにやらない人は、知らない人より悪い。この3つを私に言い残して父は逝きました。
父の言葉を胸に、作業療法士の専門学校に進学。資格を取得して卒業後は公務員として吹田市が運営する肢体不自由児の通園施設に勤めました。作業療法の現場で働きながら、父の言う通り、特別な訓練やリハビリテーションよりも、日常の遊びの中で子どもは育つのだということを実感しました。
日常的な遊びを追求し、現場で実践した結果を『遊びを育てる』(協同医書出版社)という書籍にまとめて出版。本を書いて気づいたことは、遊びの中で育つことに、障がいの有無は関係ない、ということでした。この事実を多くの人に伝えたいと思ったのですが、16年も市の職員として勤務していると、市の障がい児療育はどうあるべきか、制度を決める側になっていきます。障がい児の対応を考えると、どうしても健常者との線を引かなくてはならなくなる。
――私は線を引きたくない。
そう強く思って、退職を決意しました。
公務員の安定した環境を捨てることに、周囲からは猛反対されました。でも、父の「知っているのにやらない人は、知らない人より悪い」という言葉に背中を押され、1999年に現在の共同代表とともにピーエーエスを起業。障がいの有無に関係なく、すべての子どもを対象にした陶芸や絵画、音楽療法などの教室運営事業を始めました。自閉症スペクトラムの子どもが、綺麗な色の絵を描くのを見て、障がいのない子どもも表現が豊かになるなど、相互関係の中で育ち合う環境ができました。
しかし、当時はまだ障がい児がこのような習いごとに有料で通うことが一般的ではなかったために、なかなか収益にはつながりません。最初は療育で使う木のおもちゃを仕入れて販売し、生計を立てていました。そのうち、知人から座位保持装置と呼ばれる、医師の処方を受けて作る障がい者向けの椅子の技術を教えてもらい、挑戦してみることに。座るだけでリハビリ効果を得られるこの椅子の開発に、それまで私が培ってきた知識も技術も感覚もすべてを生かすことができたんです。教室運営では届けられる人に限界があるけれど、この椅子に自分の思いを託せば、多くの人に届けられる、と思いました。作り始めると評判になり、注文が増えため、「椅子開発を軌道に乗せて、いつかまた場所を作ろう」と誓い、一旦教室を締め、椅子の開発に集中することにしました。
そもそも、障がいの有無を超えることを目指して起業しました。椅子を作っているうちに、障がい者用に特化せず、自分が見つけた心地よさを一般的な商品として形にしたいと考えるようになります。そこで、背筋がピンとなることから「p!nto(ピント)」という名前で椅子の上に置くクッションを開発。2018年には東京の南青山に販売店をオープンしました。p!ntoのクッションは、メディアでたびたび取り上げられ、発売から11年で累計販売数48万台を突破しました。
いまは、三重県御浜(みはま)町に障がい者も一般客も一緒に快適に過ごせる「作業療法士が作る宿」の開発を進めています。みんなで星を見たり、海に釣りに行ったり、アクティビティも企画し、利用者全員が笑顔になれるような宿泊施設を目指します。
父の言葉から始まった私の作業療法士人生。自ら行動を起こした結果、多くの縁に恵まれ、ここまで来ることができました。私の夢は、これからも続いていきます。
(構成/尾越まり恵)
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