2018年、韓国・ソウルで飲食店「mom’s kitchen」を開業しました。
20歳のとき、ハワイに旅行した際にたまたま1人の韓国人男性と出会いました。彼は留学生で、私が帰国する際に「連絡先を教えてほしい」と言われたので、日本の住所を教えました。そのまま、もうつながることはないだろうと思っていたのですが、数年後に日本語を勉強した彼から手紙が届いたのです。私も韓国語の勉強を始めて、手紙のやりとりが始まりました。手紙から彼の人柄がよく伝わり、私たちはいつしか惹かれ合うように。やりとりを始めて2年後に再会したときには、お互いの気持ちは固まっていました。
しかし、韓流ブームより前で、韓国人男性との結婚に親は猛反対です。それでも、自分の気持ちを止めることができず、私は書き置きだけを残してソウルで待つ彼の元へ。駆け落ち同然で、28歳のときに結婚しました。
結婚後は、日本とは異なる家族の距離感や文化に戸惑いながらも、3人の子どもに恵まれ、家事と育児を必死にこなしてきました。ところが、2013年に突然離婚することになり、子どもたちは夫が育てることに。一緒に暮らせなくても、どうしても子どもたちの近くにいたい、と思った私には、日本に帰るという選択肢はありませんでした。結婚したときに永住権を取得していたので、離婚しても韓国に留まることができたのです。
夫の家は裕福だったので、結婚生活の中で光熱費を気にしたこともありませんでした。そんな生活から一転、お金がなくバスにも乗れず、何kmも歩かなくてはならないような暮らしに陥ってしまいます。
――何とかして生きていかなくては。
しかし、長く専業主婦だった私には、特別なスキルは何もありません。とりあえず、日本人が経営する飲食店でアルバイトを始めました。そんな生活を4~5年続けているうちに、「何も取り柄がない自分でも、飲食の世界ならやっていけるかもしれない」と考えるようになりました。これまで、子どもたちの食事だけは手を抜かずに作ってきました。
――子どもたちがいつでも立ち寄れる、母親の味を提供できるお店を立ち上げたい。
そう考えたものの、異国の地で経営の知識もなければ、入れ替わりの激しい飲食の世界で成功する保証はまったくありません。
それでも挑戦を決意したのは、子どもたちが誇れるような母親になりたいと思ったからです。知り合いの助けを得ながら準備を進め、家の近くの小さなお店を賃貸で契約。2018年に繁華街から少し離れた、自然豊かな付岩洞(プアムドン)の地に「mom’s kitchen」をオープンしました。日本にある洋食店のようなイメージで、最初はキーマカレーとカレーうどんからスタート。明太パスタやキーマドリア、スープカレー、担々麺など、メニューを増やしていきました。
コロナ禍が明けてからはSNSの口コミのおかげでお客様が増えています。ドリンクもすべて日本の商品を置いているので、日本のビールや日本の料理を好む韓国のお客様が「日本にいるみたいだ」と喜んでくれています。
開業して2年後に、父が他界したのですが、最期に「美江のことはもう何も心配していない」と言ってくれました。何より、3人の子どもたちが全員「お店を継ぎたい」と言ってくれるほど、このお店を自慢に思ってくれているのがすごく嬉しいですね。決して大げさではなく、「人生、これで悔いがない」と感じています。
日本で同じような飲食店を開いても、埋もれてしまって成功することはなかったでしょう。日本人が経営するお店「mom’s kitchen」は、ソウルだからうまくいったのだと思います。
いま、お店で働いている時間がとても幸せです。1人1人のお客様に喜んでもらえるよう、このお店を大事に守っていきたいと思います。
(構成/尾越まり恵)
20歳のとき、ハワイに旅行した際にたまたま1人の韓国人男性と出会いました。彼は留学生で、私が帰国する際に「連絡先を教えてほしい」と言われたので、日本の住所を教えました。そのまま、もうつながることはないだろうと思っていたのですが、数年後に日本語を勉強した彼から手紙が届いたのです。私も韓国語の勉強を始めて、手紙のやりとりが始まりました。手紙から彼の人柄がよく伝わり、私たちはいつしか惹かれ合うように。やりとりを始めて2年後に再会したときには、お互いの気持ちは固まっていました。
しかし、韓流ブームより前で、韓国人男性との結婚に親は猛反対です。それでも、自分の気持ちを止めることができず、私は書き置きだけを残してソウルで待つ彼の元へ。駆け落ち同然で、28歳のときに結婚しました。
結婚後は、日本とは異なる家族の距離感や文化に戸惑いながらも、3人の子どもに恵まれ、家事と育児を必死にこなしてきました。ところが、2013年に突然離婚することになり、子どもたちは夫が育てることに。一緒に暮らせなくても、どうしても子どもたちの近くにいたい、と思った私には、日本に帰るという選択肢はありませんでした。結婚したときに永住権を取得していたので、離婚しても韓国に留まることができたのです。
夫の家は裕福だったので、結婚生活の中で光熱費を気にしたこともありませんでした。そんな生活から一転、お金がなくバスにも乗れず、何kmも歩かなくてはならないような暮らしに陥ってしまいます。
――何とかして生きていかなくては。
しかし、長く専業主婦だった私には、特別なスキルは何もありません。とりあえず、日本人が経営する飲食店でアルバイトを始めました。そんな生活を4~5年続けているうちに、「何も取り柄がない自分でも、飲食の世界ならやっていけるかもしれない」と考えるようになりました。これまで、子どもたちの食事だけは手を抜かずに作ってきました。
――子どもたちがいつでも立ち寄れる、母親の味を提供できるお店を立ち上げたい。
そう考えたものの、異国の地で経営の知識もなければ、入れ替わりの激しい飲食の世界で成功する保証はまったくありません。
それでも挑戦を決意したのは、子どもたちが誇れるような母親になりたいと思ったからです。知り合いの助けを得ながら準備を進め、家の近くの小さなお店を賃貸で契約。2018年に繁華街から少し離れた、自然豊かな付岩洞(プアムドン)の地に「mom’s kitchen」をオープンしました。日本にある洋食店のようなイメージで、最初はキーマカレーとカレーうどんからスタート。明太パスタやキーマドリア、スープカレー、担々麺など、メニューを増やしていきました。
コロナ禍が明けてからはSNSの口コミのおかげでお客様が増えています。ドリンクもすべて日本の商品を置いているので、日本のビールや日本の料理を好む韓国のお客様が「日本にいるみたいだ」と喜んでくれています。
開業して2年後に、父が他界したのですが、最期に「美江のことはもう何も心配していない」と言ってくれました。何より、3人の子どもたちが全員「お店を継ぎたい」と言ってくれるほど、このお店を自慢に思ってくれているのがすごく嬉しいですね。決して大げさではなく、「人生、これで悔いがない」と感じています。
日本で同じような飲食店を開いても、埋もれてしまって成功することはなかったでしょう。日本人が経営するお店「mom’s kitchen」は、ソウルだからうまくいったのだと思います。
いま、お店で働いている時間がとても幸せです。1人1人のお客様に喜んでもらえるよう、このお店を大事に守っていきたいと思います。
(構成/尾越まり恵)
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