ネルソン聡子 翻訳者

翻訳者 ネルソン聡子さん

42歳でアメリカ人男性と結婚したネルソン聡子さん。1年ほどの不妊治療を経て、養子縁組によって子どもを迎えることを検討し、結果的にフィリピンの遠戚から娘を迎え入れた。後編では、養子縁組が成立するまでの経緯と、育児をしながら、いまどのようなことを思っているのか、話を聞いた。

 1年ほどの不妊治療を経て、夫婦で話し合い、養子縁組について検討を始めたネルソン聡子さん。血のつながりについては、どのように考えていたのだろうか。

 「私にとって大きかったのは、以前保育園で働いていた経験です。保育園で接した子どもたちは、自分の子どもではなくても、すごくかわいかった。その経験があったから、養子縁組に対して特別な抵抗を感じることなく検討していくことができたのだと思います」

 ISSJ(社会福祉法人 日本国際社会事業団)という国際養子縁組の斡旋団体に問い合わせてオリエンテーションを受けたり、児童相談所に問い合わせたりして情報を集めた。

 「日本の養子縁組を利用しても良かったのですが、私が日本人で夫がアメリカ人なので、多様な家族もいいよねと話して、国際養子縁組についても検討しました」

 養子縁組の制度は、さまざまな事情で子どもを育てられない親のもとに産まれた子どもが養育を受けられることを目的に作られた制度だ。特別養子縁組の場合は、法的に生みの親との法的な親子関係を解消し、育ての親と戸籍上も親子になる手続きが行われる。あくまでも子どもの幸せのための制度である。
 
 検討を進めていたとき、フィリピン人の夫の母親が、フィリピンにいる遠い親戚の中に、養子を希望している家族がいると知らせてくれた。
 ちなみにフィリピンでは、三世帯同居は当たり前で、親戚も含め大家族で暮らすことも多いという。

 「家族の概念が、日本より広いんですよね。その家族の場合は、すでに3人の男の子がいて、そこに娘が生まれたそうです。母親は子育てがあるため働いておらず、父親の給料もそんなに高くない。生活が苦しい中で、どうしても男性以上に将来の選択肢が少なくなってしまう女の子には、できればきちんとした教育を受けて育ってほしい。信頼できる人に預けたいと望んでいました」

 その家族が住んでいたのはフィリピンの地方都市で、Wi-Fi環境が整っておらず、近隣の家の人の電波を借りながら生活するような状況だった。
 
 2022年8月、夫の母親がセッティングしてくれて、はじめてFacebookのMessenger(メッセンジャー)アプリを使って母親と顔を合わせた。フィリピンの母語はタガログ語だが、母親は英語が話せたため、英語で会話ができた。

 「当時まだ生後7カ月の娘さんを、まずは本当に養子に出して良いのですか? という意思確認をさせてもらいました。そして、こちらからは養子として引き受けさせてもらえるならば、嬉しいし光栄だし、しっかり育てていきますと伝えました」

 その会話の途中でも、電波が悪く、通話は何度も途切れた。幾度もつなぎ直し、お互いに意思確認をした。
 母親も「血縁関係はなくても、まったくの他人ではなく、信頼できる知り合いから紹介していただいた方に託せるのは嬉しい」と言った。

 そして、このとき、聡子さんははじめて画面越しにシンシアちゃん(仮名)の顔を見ることになる。

 「もう、心を撃ち抜かれましたね。本当に、恋に落ちたような感覚でした。かわいいな、と思いました」
 こうしてお互いに意思確認ができたところで、実際に日本に養子に迎える手続きに着手することになった。

養子縁組が成立「ここからが本当のスタート」

 フィリピンで手続きを踏んでから日本にシンシアちゃんを迎え入れようと思ったが、1895年に締結された世界的な国際養子縁組に関するハーグ条約(国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約)が思わぬハードルとなってしまった。この条約に批准している国であれば比較的スムーズに養子を迎え入れることができるのだが、日本はハーグ条約に批准していない。そのため、手続きはより複雑さを極めた。

 「フィリピンから養子を迎えるのは難しいかもしれない」と絶望する夫をなだめ、聡子さんは「きっと、道はあるから」と、大使館、司法書士、弁護士などあらゆる専門家に相談し、方法の糸口を求めた。

 その中で、1人の国際行政書士の先生が、日本の家庭裁判所に申請する際に、子どもが日本にいなければならないため、まずは短期ビザで日本に入国してから日本で手続きを進めるのがいい、と教えてくれた。

 そうして2023年3月、母親が生後11カ月になったシンシアちゃんを抱いて日本にやってきた。
 シンシアちゃんの母親は当時まだ29歳。パスポートを取得するのも、フィリピンから出るのもはじめての経験だった。
 「成田空港まで迎えに行ったのですが、もうとにかく心配で心配で仕方なかったですね。ちゃんと日本に来られるかな、って。だから、会えたときは心からほっとしました」

 その後は、より慎重に確実に進めるため、聡子さんは特別養子縁組に詳しい弁護士に依頼して手続きを進めた。

 「手続きが完了して特別養子縁組が成立したら、親権はなくなりますよ。本当に大丈夫ですかと、お母さんには何度も確認しました。生まれてから11カ月間、ずっと一緒にいたので、お母さんは泣いていましたが、子どものために、という思いで決意を伝えてくれました」

ネルソン聡子 翻訳者

複雑だった養子縁組の手続きを振り返り、「いかに情報を手に入れるか、知識を持っている専門家に頼めるかどうかがポイントになった」と話す


 2023年12月、正式にシンシアちゃんと聡子さん夫婦の特別養子縁組が成立した。

 戸籍上の親子となった瞬間の思いを、聡子さんはこう振り返る。
 「手続きの期間が長かったので、ようやく成立したのか、という安堵の気持ちと、これからがスタートだな。一生をかけてこの子を育てていく責任が自分たちにあるんだ、と改めて思いました」

 こうして、本格的に育児が始まった。聡子さんも夫も、もちろん子育てははじめてだ。母親が帰国したときはずっと泣いていたシンシアちゃんも、1カ月ほど経つと緊張がほぐれ、少しずつ笑顔が見られるようになった。

ネルソン聡子 翻訳者

夫と娘のシンシアちゃん。夫も育児に協力的だ(写真提供/ネルソン聡子さん)


 家の壁には、生みの親や家族の写真が貼ってある。

 「目に触れるところに写真を置いたりしながら、自然な形で自分には生みの親と育ての親がいることを理解するのが望ましいと言われています。いまも写真を指して、これは生みのお母さんだよ、と伝えたりしています。とにかくオープンなコミュニケーションを心掛けて、ありのままを伝えていこうと思っています」

「これでいいのだろうか?」日々、責任感が増していく

 シンシアちゃんはいま、2歳半になった。保育園に通い始め、社会との接点も増えてきた。
 「日本はまだ養子縁組の事例が少ないために、周囲に養子を迎えたと話すと、どう反応していいかわからない、といった表情をされることが多いですね。『偉いわね』と言われたこともあって、別に偉いことをしているつもりはないけどな、と戸惑いました」

 世間の養子縁組に対する理解を深め、イメージを変えていきたいと聡子さんは考えている。日本で理解が進まない要因の1つは、経験者のリアルな声を聞く機会が少ないからだ。聡子さんは養子縁組の 理解を促進するため、仲間たちと一緒に海外の養子縁組に関するドキュメンタリーや、海外の当事者(養子、養親、産みの親」のインタビュー映像に日本語字幕をつけるプロジェクト(Adoption_For_Happiness)を仲間たちと一緒に進めている。

 「養子であることをオープンにしている人もいれば、周囲の目を気にして隠している人もいます。理解が進まないから、国の制度も進んでいきません。まずは知ってもらいたいと思っています。そうして、養子を迎えることが特別なことではなく、子どもを持つための選択肢の1つとして当たり前に存在する世の中になったらいいなと思います」

 ずっと子どもが欲しいと望んできたこともあり、「子育てはすごく楽しい」と話す聡子さん。養子縁組で迎えた子どもであり血縁関係はないものの、日々の生活でそれを意識することはない。
 養子縁組の手続きを進めているときは、ただがむしゃらだった。夫と娘と3人の生活に慣れてきたいま、改めて責任の重さをひしひしと感じている。

 「ここからが長いですからね。しっかり育てないと、と責任感は日に日に強くなっています。そして日々、思うんです。壁に写真を貼っているけど、これでいいのかな。この伝え方でいいのかな、と。2つの家族を持つ娘が、その事実を受け止めた上で、前向きに育ってほしい。そのために日々できることは何だろうと考え続ける毎日です」

 責任の重さと同時に、シンシアちゃんは大きな幸せも聡子さん夫婦にもたらしてくれた。
 「つい最近までできなかったのに、子ども用の包丁でソーセージを切れるようになったのを見て成長したなと思ったり。その一瞬一瞬が本当に幸せで、人生が豊かになったのを感じます

ネルソン聡子 翻訳者

2歳半になったシンシアちゃん。3人で暮らす毎日は、喜びも3倍になった(写真提供/ネルソン聡子さん)


 自分がいなければ生きていけない幼い娘と日々接しながら、自分が頼られる存在になったことを強く感じるという聡子さん。養子縁組が子どもの幸せのための制度であることを、決して忘れることはない。
 子育てはまだ始まったばかりだ。これから一生をかけて、シンシアちゃんを大切に育てていく。

(文/尾越まり恵 特記のない写真/齋藤海月)
プロフィール
ネルソン聡子(ねるそん・さとこ)
翻訳者

大学卒業後、映画配給会社に就職。営業の傍ら作品のシノプシス翻訳や作品自体の翻訳を経験する。その後は自分の世界を広げようと海外とのプロジェクトを行う会社に転職、プレスリリース等の翻訳、PRやマーケティングを担当。教育関連の仕事に携わった後フリーランスに転向し、2013年より改めて翻訳業を開始、映像翻訳を行う。2024年現在、翻訳者仲間とともに、海外の養子縁組に関するドキュメンタリーや当事者のインタビュー映像を翻訳・配信するプロジェクト(Adoption_For_Happiness)も進行中。
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