
一般社団法人スポーツコア 代表 川上優子さん
シドニーオリンピックが終わった後、川上優子さんは4年後のアテネオリンピックに向けて練習を続けた。とにかく「オリンピックだけをターゲットにしていた」というが、過酷な練習とレースに耐えてきた体は悲鳴を上げていた。ケガをすることも増え、ケガが治り切らないまま試合に出て、また体がボロボロになる、その繰り返し。
2002年4月、ついに大きく体調を壊し、試合の前日に救急病院に駆け込んだ。
「よく覚えていませんが、熱もあって家に帰ってから寝込みました。そのときに、もういいかな。健康でなければ、望むものも手に入らないな、と思いました。心身ともに、限界まできていたのだと思います」
同年9月には正式に引退を表明。小学生のときに走る楽しさに目覚め、中学時代から27歳まで、長い時間を陸上に費やしてきた。引退に未練はなかったのだろうか。
「走りたくなったらまた戻ればいい、と思っていました。引退せずに一時休養するという選択肢もあったのかもしれませんが、陸上の世界に留まったまま休養できるとは思えませんでした。いったん離れたほうがいいだろうなと思ったんです」
とはいえ、心境は複雑だった。「やり切った」という思いはなく、「まだやれる」という思いが残っていた。それでも、これ以上トレーニングを積んでいくことはできない。体も心も休めなければ、という思いが勝った。
「当時はもう本当に限界だったので、引退するしかなかったのだと思います。それまで全力で陸上に向き合ってきたのは確かなので、後悔はありませんでした」
引退を決めた時点では、先のことはまだ何も考えていなかった。
「オリンピック7位」を自己ベストにしたくない
陸上選手のセカンドキャリアとして多いのは、陸上界に残り、指導者や解説者になること。実際、川上さんにもそういったオファーがきていた。しかし、川上さんは陸上を離れ、「プロゴルフに挑戦する」という異例の決断をして、周囲を驚かせた。
「陸上界に残ったら、『オリンピック7位入賞』が、自分のベストになります。当時まだ27歳だったので、その記録をずっと超えられずにこの先の人生を生きていくのは嫌だな、と思ったんです。もう少し自分のチャレンジがしたいと思いました」
当時、体のメンテナンスを依頼していた知人がゴルフのコーチもしていたために、ゴルフに興味を持った。しかし、それまでゴルフクラブを握ったことすらない。スポーツの厳しさは十分に理解している。年齢的にも、遅すぎる挑戦だった。
「うまくいくか、いかないかは、正直どうでも良かったんですよね。それはあくまでも結果であって、自分が新しいことにチャレンジすることの方が重要だったんです。新たに、自分の限界にどう向き合っていけるのか、そのことに興味がありました」
しかし、この思い切った川上さんの決断に、周囲は猛反対した。
「なんで、なんで? ですよね。みんなまず理解できない。陰では、陸上界に残っていれば出世できるのに、と言われました。確かに、陸上の世界ではそれなりにキャリアも知名度もありました。でも、その世界を離れたらただの人です。人の価値観って面白いなと思いました」

結果よりも、新しいことに挑戦することに意味があった
周囲に何を言われても、川上さんの決意は揺らがなかった。
どうせゴルフに挑戦するなら、プロを目指したい。たとえ、可能性がゼロに近いとしてもーー。
こうして、27歳の新たな挑戦が始まった。
「実際にゴルフクラブを振ってみると、想像以上に難しかったですね。テクニックはもちろん、“ゴルフ脳”といったマインドを身につけることが難しいんです。陸上の経験や年齢的なものなど、これまでの先入観が邪魔をしてなかなかフラットに受け入れられませんでした。素直であることがいかに大事かをゴルフで学びました」
自分の足りない部分や、思考の癖と向き合う日々。体のどこを使って、どうボールを打てばいいのか、まったくコツがつかめない。「真っ暗なトンネルを突き進んでいるようだった」と川上さんは振り返る。
本番で開き直れるのは、練習してきた人だけ
一方で、ゴルフにおいて陸上の経験が生きた部分も多かった。陸上もゴルフも、スポーツの世界で勝負に向き合うときのメンタルコントロールは共通していた。
川上さんは陸上を通して「想定外を想定内にする」訓練を積み重ねていた。
天候や自分のコンディションなど、コントロールできないさまざまな状況の中でレースは行われる。何が起こっても、常に自分のメンタルを平常に保てなければ、ベストのパフォーマンスは発揮できない。
「特に海外なんて、想定外のことしか起こらないんですよ。だから、私はレース前のルーティンなどは決めませんでした。ルーティンができないと不安になってしまうので。それよりも、どんな状況でも自分のパフォーマンスが左右されないことのほうが大事だと思っていました」
過去には、レース前に準備をしてウォーミングアップを終わらせた瞬間に、スタート時間が実際には50分後だったと知らされたこともある。その瞬間、「えっ?」と思う。50分も経てば、せっかくウォーミングアップをした体がまた固まってしまう。しかし、「まぁ海外だしそういうこともあるよね」と切り替えるしかない。
「いまの状況で最善を尽くすにはどうすればいいかを考えるんです。自分に都合のように解釈を置き換える訓練をずっとしてきました」
このメンタルのコントロールや、勝負のときの腹のくくり方、そして集中力は、ゴルフにも同様に必要なものだった。
ただ、ゴルフをしてわかったことは、「開き直るにも根拠が必要だ」ということ。
「陸上のときは、自分は開き直れる人間だと思っていたのですが、ゴルフではできませんでした。そのときに、陸上で開き直れたのは、それまで積み重ねてきた練習という根拠があったからだと悟りました。開き直ることは、それなりに準備と練習をしてきた人にしかできないんだな、と。その根拠を手に入れられるくらい、陸上では練習をさせてもらっていた。そのことに改めて気づき、感謝の気持ちが強くなりました」

27歳ではじめてゴルフクラブを振った(川上さん提供)
ゴルフに挑戦するにあたり、最初の5年ほどは陸上時代に所属していた実業団の沖電気宮崎の支援を受けた。
「間違いなく、私が陸上でオリンピック7位という記録を残したからこそ得られたサポートです。オリンピアンだから、無謀ともいえるゴルフへの挑戦を、多くの人に支援してもらえました。そのことにものすごく感謝していますし、陸上を一生懸命頑張ってきて良かったなと思いました」
10年にわたりゴルフのプロライセンスに挑戦したが、目標は叶わず、37歳で川上さんは納得して挑戦を終えた。
ゴルフに挑戦したからいまの自分がある
結果的に目標は達成できなかったが、川上さんに後悔はない。
「よくぞゴルフを選んだな、と。それこそ当時の自分を褒めてあげたいと思います」
そう思えるのは、ゴルフを経験したことで得られた多くの気づきや、人とのつながりがあるからだ。陸上の世界から一度離れて新しい世界に入ったことで、外から陸上界を見ることもできた。改めて感謝も生まれた。それは、陸上界に残っていたら得られなかったものだ。

いまは再び陸上を軸にしているが、ゴルフという引き出しも増えた
ゴルフをやめてからは、再び陸上が川上さんの軸になった。キヤノンの実業団で4年ほどコーチを務め、いまは自身で立ち上げた一般社団法人スポーツコアの代表理事として、ランニングを教えたり、企業に出向いて講演をしたり、ゴルフスタジオのサポートをしたりと幅広く活動している。近年ではシンガポールや台湾など、海外で講演する機会も増えている。
「この先は世界にも目を向けて、ランニング後進国で、スポーツに向き合うマインドや練習の組み立て方、試合までの調整方法などを伝えるような活動をしていきたいと思っています」
常に限界に挑み続ける姿勢は、いまも失っていない。川上さんはこれからも前だけを見て走り続けていく。
(文/尾越まり恵 特記のない写真/齋藤海月)プロフィール
川上優子(かわかみ・ゆうこ)
一般社団法人スポーツコア 代表理事
1975年熊本県生まれ。1994年、熊本信愛女学院高等学校卒業後、沖電気宮崎に入社。1996年アトランタオリンピック女子10000m7位入賞、2000年シドニーオリンピック女子10000m10位と2大会連続でオリンピック出場。全日本実業団対抗女子駅伝大会では、OKI(当時の沖電気宮崎)の3度の総合優勝にも貢献した。
2002年に陸上を引退し、ゴルフに挑戦。2018年から23年までキヤノン アスリート クラブ 九州のコーチを務める。2017年に一般社団法人スポーツコアを設立し、代表理事に就任。現在は講演活動・イベント出演、ランニング教室など幅広く活動する。