2006年3月、38歳のときに勤務先の社長の娘との婚姻関係を解消し、同年6月に16年ぶりに再会した同級生と9月に再婚。これがのちの起業につながる大きな人生の決断、転機となりました。
タイのバンコク生まれ。日本、ブラジル、アルゼンチンと移り住み、15歳まで海外で育ちました。父親は大手商社のアルゼンチン支社長。裕福な家庭で育ち、父親のリーダーシップを見ていた私は「いつか父のようなリーダーになりたい!」と考えるようになりました。16歳で帰国し、同志社国際高校、同志社大学商学部へと進み、「社長になるには、世の中のモノの流れよりお金の流れを見るのが大事なんじゃないか」という先輩の言葉を信じて大学卒業後は都市銀行に入行しました。
入行して3年が経つ頃、得意先の社長の紹介ではじめてのお見合いをすることに。お相手は関西の老舗製造業の社長令嬢でした。少しぽっちゃりした体形だったので一度お断りしたのですが、3カ月後にダイエットしてすっきりした姿で現れたのを見て、努力する姿に感動。「何としても社長になりたい!」と思っていたこともあり、1997年7月に結婚。銀行を辞め、妻の父親が社長を務める会社へと転職しました。
朝4時から製造工場に入る、一社員としての勤務を開始しましたが、のちに社長の座に就任することが確約されていたこともあり、新規事業を手掛け、配送ドライバーのための簡易宿所・大阪トラックステーションの開設や病院の中に売店を新設する仕事に積極的に取り組みました。100年続く名門企業の社長令嬢と結婚できた私は張り切っていたのです。実際に事業は伸長。従業員数も150名から250名まで増やすことができました。しかしそんな中、2000年に当時社会問題となるような大事件が発生。20億円規模の事業が吹っ飛び、多角化経営もうまくいかなくなりました。いま思えば当時の自分は「何様俺様」でコミュニケーションも傲慢だったのでしょう。公私ともにまったくうまくいかない時期に突入していました。
そんな2004年の11月、実父が急逝。私の父はもともと妻との結婚を反対しており、父の葬儀で妻や妻の実家との考え方の違いが浮き彫りに。「社長になりたい」と思っていた欲深い自分と、「後継者がほしい」と考えていた妻の実家。この間違ったボタンの掛け違いを元に戻す必要があるのではないか――。そんな思いは日に日に強くなり、1年に及ぶ調停の末、ついに2006年3月に離婚が成立しました。
状況の変化を方々に連絡したところ、友人たちがセッティングしてくれた合コンで16年ぶりに再会した大学時代の同級生と意気投合。9月に入籍し、10月に結婚式を挙げました。あらゆることにゴールを設定し、目標を明確にしたら3カ月以内に何らかの結果を実現する、というのが私の信条なのです。
2007年からは横浜の実家に転がり込んで、母親と妻との3人暮らしが始まりました。とはいえ仕事はありません。横浜ハローワークに通って、おそうじ本舗やコナミスポーツなど興味ある事業所に履歴書を送付する日々が続きました。ところがハローワークの検索リストに並ぶ会社名を見ているうちに、自分はもしかしたらここに掲載されている会社をコンサルティングできるのではないかという気持ちが芽生えてきました。そこで目に留まった創業1年ほどのベンチャー企業、財務営業コンサルティング会社に就職。
しかし、その業務の多くは貸金業で、債権が焦げ付き始めた会社の資金回収を担当することに。そんな中、前妻との間に授かっていた息子が交通事故に遭い12歳という若さで急逝したのです。自分はこんなことをしていていいのだろうか、という気持ちが芽生え、自問自答を重ねた結果、「子どもたちの未来を作っていけるような仕事をやろう」と考えました。
幸い、「高須さんが独立するならついていくよ!」と言ってくれる仲間がいたこともあり、41歳のときに起業を決意。財務営業コンサルタントやリファラルマーケティング事業(ビジネスコミュニティ運営)を展開する会社を創業。2024年に創業15周年を迎えることができました。
ありたい自分を模索しながら生きてきた半生。弱さ、至らなさを認めていくことでみんなが支えてくれるようになり、良い人生を送ることができるようになりました。これからは愛と成功のリーダーを1000人以上育てて平和に貢献していきたいと考えています。そのために、ビジネスパーソンのためのビジネスマインドをコンディショニングする新会社BMCも立ち上げました。これからは能力や志を育み、キャリア開発を通じて、楽しく働く大人たちの姿をもっともっと子どもたちに見せたいと思っています。
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