
2011年の東日本大震災をきっかけに、仙台で就職することを決意。この決断が、その後の結婚・出産と、現在暮らす南三陸町への移住へとつながっていきました。
震災当時、私は仙台の大学に通っていました。大学3年のちょうど就職活動が始まるタイミングで、卒業後は地元の秋田県に帰ろうかなと考えていたところに、震災が起こったのです。アルバイトに行く準備をしているときに大きな揺れを感じ、慌てて外に飛び出しました。住んでいた古いアパートは半壊。1時間ほど外にいると、3月にしては珍しく、雪が降ってきました。近所の知らない人が、「中に入って」と家の中に招き入れてくれました。その夜、その家の人がくれたおにぎりとバナナが、いまでも忘れられません。
ガスも電気も止まり、5日間もお風呂に入れなかったのは、人生ではじめての経験でした。友人の家に身を寄せながら、「これからどうなっていくのだろう」と不安で、極限のストレス状態が続きました。2カ月後、親が秋田から迎えに来てくれて実家に帰り、ようやく普通の生活を取り戻しました。
落ち着くと、「これから宮城がどうなっていくのか、復興を見届けたい」という思いが強く湧き上がってきました。そこで、卒業後は秋田に帰らず、仙台で就職することを決断。「人、街、元気」という企業理念を掲げた仙台の広告会社に就職し、広告企画プランナーとして働き始めました。
南三陸町出身の夫と、その会社で出会いました。彼は震災を機に希望を出して東京本社から仙台に異動してきており、震災がなかったら私たちはおそらく出会っていなかったでしょう。入社半年で復興イベントを開催したときに、彼が仙台に戻ってきた理由をはじめて聞く機会があり、「私が仙台に残りたいと思った理由と同じだ!」と強く共感したことで、少し距離が縮まりました。
その後、チームのみんなで彼の実家がある南三陸町に行きました。ご家族は仮設住宅で暮らしていて、実家があった場所にも案内してもらったのですが、「ここに家があったんだよ」と彼が指をさした先にあったのは、タイル1枚だけ。「本当にすべて流されたんだな」と大きな衝撃を受けました。その後も復興イベントのアイデアを出し合う中で、彼との距離がどんどん近くなり、自然な流れで交際がスタートしました。
2013年12月に結婚し、2人の子どもに恵まれました。ところが、2人とも正社員として働いていたので生活に追われ、いつしか夫婦のコミュニケーションは希薄に。私は2人目の出産後、アロマブランドを展開するグリーディーに転職し、新しい仕事と育児に追われていたのです。そんな2019年、夫が体調を壊して、休職することに。そこで久しぶりに家族の時間を取り戻し、改めて今後の話をすることができました。夫の希望は、実家のある南三陸町で漁師をすること。でも、私は仙台に拠点を持つ会社で、新たな挑戦をしてみたかった。そこで、夫がまず南三陸町に戻り、1年間の別居生活を送りました。
2021年、上の子どもが小学校に入学するタイミングで、私も子どもと一緒に南三陸町へ移住することを決めました。仙台と南三陸町の中間地点で、製造拠点のある石巻市に事務所を新設していただけることになり、グリーディーの仕事を継続できることも決断の後押しとなりました。
南三陸町に移住してからは、新しい環境に早く慣れなければと焦ったこともありましたが、お金では買えない人間らしい生活が、この場所で実現できていて、そのことが私と家族の人生をとても豊かなものにしてくれているといまは感じることができています。
震災から15年。南三陸町にも新しい施設ができ、道も整備され、街はずいぶん変わりました。私自身の人生も、震災からの15年間で大きく変わっています。
いま振り返って思うのは、すべてのターニングポイントには支えてくれる人がいて、いつのときも、ひとりではなかったということ。わたし1人では、決断できていなかったと思います。以前はブレない芯を持つ人がカッコイイと思っていましたが、いまは、揺らぎ迷うことも悪いことではないのだと思えるようになりました。
(構成/尾越まり恵)
震災当時、私は仙台の大学に通っていました。大学3年のちょうど就職活動が始まるタイミングで、卒業後は地元の秋田県に帰ろうかなと考えていたところに、震災が起こったのです。アルバイトに行く準備をしているときに大きな揺れを感じ、慌てて外に飛び出しました。住んでいた古いアパートは半壊。1時間ほど外にいると、3月にしては珍しく、雪が降ってきました。近所の知らない人が、「中に入って」と家の中に招き入れてくれました。その夜、その家の人がくれたおにぎりとバナナが、いまでも忘れられません。
ガスも電気も止まり、5日間もお風呂に入れなかったのは、人生ではじめての経験でした。友人の家に身を寄せながら、「これからどうなっていくのだろう」と不安で、極限のストレス状態が続きました。2カ月後、親が秋田から迎えに来てくれて実家に帰り、ようやく普通の生活を取り戻しました。
落ち着くと、「これから宮城がどうなっていくのか、復興を見届けたい」という思いが強く湧き上がってきました。そこで、卒業後は秋田に帰らず、仙台で就職することを決断。「人、街、元気」という企業理念を掲げた仙台の広告会社に就職し、広告企画プランナーとして働き始めました。
南三陸町出身の夫と、その会社で出会いました。彼は震災を機に希望を出して東京本社から仙台に異動してきており、震災がなかったら私たちはおそらく出会っていなかったでしょう。入社半年で復興イベントを開催したときに、彼が仙台に戻ってきた理由をはじめて聞く機会があり、「私が仙台に残りたいと思った理由と同じだ!」と強く共感したことで、少し距離が縮まりました。
その後、チームのみんなで彼の実家がある南三陸町に行きました。ご家族は仮設住宅で暮らしていて、実家があった場所にも案内してもらったのですが、「ここに家があったんだよ」と彼が指をさした先にあったのは、タイル1枚だけ。「本当にすべて流されたんだな」と大きな衝撃を受けました。その後も復興イベントのアイデアを出し合う中で、彼との距離がどんどん近くなり、自然な流れで交際がスタートしました。
2013年12月に結婚し、2人の子どもに恵まれました。ところが、2人とも正社員として働いていたので生活に追われ、いつしか夫婦のコミュニケーションは希薄に。私は2人目の出産後、アロマブランドを展開するグリーディーに転職し、新しい仕事と育児に追われていたのです。そんな2019年、夫が体調を壊して、休職することに。そこで久しぶりに家族の時間を取り戻し、改めて今後の話をすることができました。夫の希望は、実家のある南三陸町で漁師をすること。でも、私は仙台に拠点を持つ会社で、新たな挑戦をしてみたかった。そこで、夫がまず南三陸町に戻り、1年間の別居生活を送りました。
2021年、上の子どもが小学校に入学するタイミングで、私も子どもと一緒に南三陸町へ移住することを決めました。仙台と南三陸町の中間地点で、製造拠点のある石巻市に事務所を新設していただけることになり、グリーディーの仕事を継続できることも決断の後押しとなりました。
南三陸町に移住してからは、新しい環境に早く慣れなければと焦ったこともありましたが、お金では買えない人間らしい生活が、この場所で実現できていて、そのことが私と家族の人生をとても豊かなものにしてくれているといまは感じることができています。
震災から15年。南三陸町にも新しい施設ができ、道も整備され、街はずいぶん変わりました。私自身の人生も、震災からの15年間で大きく変わっています。
いま振り返って思うのは、すべてのターニングポイントには支えてくれる人がいて、いつのときも、ひとりではなかったということ。わたし1人では、決断できていなかったと思います。以前はブレない芯を持つ人がカッコイイと思っていましたが、いまは、揺らぎ迷うことも悪いことではないのだと思えるようになりました。
(構成/尾越まり恵)
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