23歳のとき、福岡県の北九州空港から羽田空港に向かう飛行機に乗り込みました。小さなキャリーバッグとラジカセ1つ。そして、「歌手になる」という夢への切符だけを握りしめての上京でした。
――か~らす~なぜなくの~♪
お風呂の中で歌を歌うのが、幼い頃の私の日課だった。
「櫻は歌が本当にうまいなあ」
父も母も、私の歌を褒めてくれた。これが、私の夢の原点です。
10代後半からは自分で作詞・作曲した曲をライブハウスで歌うようになりました。そんな私に母が小さなスナックを用意してくれて、夜はそこで働きながら歌を歌っていました。
転機は、23歳の誕生日。
「おまえは将来どうなりたいんだ?」と常連のお客様に聞かれ、「歌手になりたいんだけど、どうすればいいかわからないんよね」と答えた私。
「本当にやりたいなら、もう行動に起こしているはず。行動に起こさないおまえの夢なんて、そんなに強いものじゃない。だとしたら、もう二度と歌手になりたいなんて言うな!」
彼は本気で私を叱ってくれた。
悔しくて、涙がボロボロこぼれました。すぐに上京を決意し、母に伝えました。
「私は絶対、歌手になる!」
母は、「その気持ちが、夢への切符なのかもしれんね。頑張っておいで」と背中を押してくれた。
とはいえ、東京には1人の知り合いもいない。唯一知っていた新宿に行き、駅前で歌いました。緊張して震える片手を、もう片方の手で必死に抑えた。雑踏の中で、ほんの数人が、私に気づいてくれた。その後、東京のライブハウスでも歌うようになりました。
しかし、26歳のときに、母が病気で他界します。ショックのあまり、私は福岡に戻ったまましばらく歌うことができなくなりました。でも、ここでも背中を押してくれたのは母でした。遺品を整理していたら、母が書いた手紙がたくさん出てきたのです。
「櫻には、ずっと歌っていてほしい」
そう書かれてありました。
再び上京した後、環境を変えようとニューヨークへ。「あなたは声量があるから海外が向いている」という母の言葉に背中を押してもらいながら。
ニューヨークのアポロシアターで歌うチャンスに恵まれ、それが縁で帰国後にCDデビューすることができました。
母が、私をここまで連れてきてくれた。必死にしがみついてきたこの夢を、私はこれからも追い続けていきます。
お母さん、私の歌は届いていますか。
――か~らす~なぜなくの~♪
お風呂の中で歌を歌うのが、幼い頃の私の日課だった。
「櫻は歌が本当にうまいなあ」
父も母も、私の歌を褒めてくれた。これが、私の夢の原点です。
10代後半からは自分で作詞・作曲した曲をライブハウスで歌うようになりました。そんな私に母が小さなスナックを用意してくれて、夜はそこで働きながら歌を歌っていました。
転機は、23歳の誕生日。
「おまえは将来どうなりたいんだ?」と常連のお客様に聞かれ、「歌手になりたいんだけど、どうすればいいかわからないんよね」と答えた私。
「本当にやりたいなら、もう行動に起こしているはず。行動に起こさないおまえの夢なんて、そんなに強いものじゃない。だとしたら、もう二度と歌手になりたいなんて言うな!」
彼は本気で私を叱ってくれた。
悔しくて、涙がボロボロこぼれました。すぐに上京を決意し、母に伝えました。
「私は絶対、歌手になる!」
母は、「その気持ちが、夢への切符なのかもしれんね。頑張っておいで」と背中を押してくれた。
とはいえ、東京には1人の知り合いもいない。唯一知っていた新宿に行き、駅前で歌いました。緊張して震える片手を、もう片方の手で必死に抑えた。雑踏の中で、ほんの数人が、私に気づいてくれた。その後、東京のライブハウスでも歌うようになりました。
しかし、26歳のときに、母が病気で他界します。ショックのあまり、私は福岡に戻ったまましばらく歌うことができなくなりました。でも、ここでも背中を押してくれたのは母でした。遺品を整理していたら、母が書いた手紙がたくさん出てきたのです。
「櫻には、ずっと歌っていてほしい」
そう書かれてありました。
再び上京した後、環境を変えようとニューヨークへ。「あなたは声量があるから海外が向いている」という母の言葉に背中を押してもらいながら。
ニューヨークのアポロシアターで歌うチャンスに恵まれ、それが縁で帰国後にCDデビューすることができました。
母が、私をここまで連れてきてくれた。必死にしがみついてきたこの夢を、私はこれからも追い続けていきます。
お母さん、私の歌は届いていますか。
櫻 Twitter
★2023年2月25日待望のニューアルバム発売決定!
音楽活動の中で知り合った尊敬する仲間達に作曲を依頼し、櫻が全作詞を行った最新アルバム!
★作曲してくださったアーティスト達が全て集まるレコ発イベントも開催!