
2024年の春、52歳のときに「復興住宅を建てたい」と考え、リスキリングで建築士を目指すことを決めました。
宮城県石巻市出身で、昔から機械いじりが好きな子どもでした。「びっくり箱の中身を知りたい!」と考えて、小学生のときからテレビを分解しては感電して吹っ飛ばされたりしていました。特に電気という見えないものの力は不思議で、明かりになったり熱になったり動力になったりもします。「なんでテレビにはこんな画像が出るんだろう?」と不思議で面白くてわくわくしました。
中学校卒業後は岩手県内にある一関工業高等専門学校へ。学生会やラグビー部に所属するなど充実した学校生活ののち、日立電線株式会社に就職しました。20代で27万5千ボルトもある超高圧ケーブルの工事を任され、国道の橋げたの下で仕事をしたり、深夜に新幹線を運ぶトレーラーに電線を積んで輸送したりと、大規模な面白い工事に携わることができました。
当時、日立市にはラジオ局がありませんでした。県域のラジオがないのは全国で茨城県だけ。ラジオがないと震災時などに情報を取得できないと感じ、30歳のときに「ないなら作ろう」とラジオ局の立ち上げを社内で提案しましたがあえなく却下。そこで72年に一度のお祭り・金砂大田楽(かなさおおでんがく)が開催されるタイミングで地元NPOが主体となり5日間だけの短期間免許を取得してイベントFMを放送、無線従事者として携わりました。「面白い」と好評で、放送部の子どもたちから気持ちのこもった手紙が届くなど、大きな反響をいただきました。この街にラジオ局があるのはいいことだと手ごたえを感じ、会社を退職して「ラジオ局を立ち上げたいので応援してください」と市議会議員に出馬しましたが落選してしまいます。
2004年、資本金1円で会社が作れるようになると、常陸放送設備を立ち上げました。それまでお世話になった人や前職の人たちからの仕事で事業は軌道に乗り、社員も採用できるようになりました。一般建設業(電気・通信・消防・管)の資格も続々と取得していきました。地元の人たちといろいろな話をしながら、2010年2月にようやく念願のラジオ局設立に成功。
東日本大震災はその翌年に発生しました。「石巻市が大変らしい」と聞いて、同軸ケーブルを屋外まで引き回して、近隣の方々と怯えながらテレビを見ていると、実家周辺が被災している姿が映っていました。実家もお墓もすべて流されたことを知りながら、「電気設備を見てくれ」とかかってくる電話を受け、徹夜であちこち見て回りました。津波から逃げ切った両親は、数年にわたって関東地区も含むさまざまな住居を転々とすることを余儀なくされました。
2024年、能登半島地震が発生。住むところがなく困っている人たちがたくさんいるのに、電気屋だけでは東日本大震災の時のように何もできない。どうにかできないか――。
そんなとき、週2日2年制の職業訓練学校の存在を知りました。「木造建築を学びたい人向けに開校しているが、人が集まらない」と広く生徒を募集していることを知り、通学を決意。生徒は18歳から55歳までの15人で、みな仲良く家族のような雰囲気で、私は「お父さん」と呼ばれていました(笑)。
卒業製作では同級生5人で避難シェルターに挑みました。災害時に安心して休める心地よい小空間を伝統工法に倣い組立て、復興住宅に昇華させる方策もみなで考察しました。
建築分野の知識をさらに研鑽し、これまでの設備工事と一元化させ、生活情報提供も行えるようになれば、これまでの経験をすべて生かしながら早期復興のための一助になれるのではないかと考えています。
いま暮らしている人たちが命と財産をきちんと守って暮らしていける社会をつくりたい。まだまだ技能や知識で応えられていないことはたくさんあることは、リスキリングを進める中で痛感しました。職業訓練指導員の資格も取得し、日立市内の弊社1階に教室を作り、これまで習得した技術を伝える準備を進めています。これからは自己研鑽とともに次世代への技術伝承にも携わっていきたいと考えています。
常陸放送設備株式会社 ホームぺージ







