吉村直心

28歳のとき、ラグビーを辞め、トレーナーの道を志すと決め、理学療法士の資格を取得しました。

はじめてラグビーに出会ったのは小学校5年生のときのことです。そのときつけたテレビでたまたま流れていたのが、同志社大学対新日鉄釜石のラグビー日本選手権でした。実況・解説の言葉から、どちらもラグビーの強豪でライバル関係にあるチーム同士であることがわかりました。

同志社大学のチームが円陣を組むと、キャプテンは「ええか、今日の一戦は試合やと思うな。戦(いくさ)や戦(いくさ)。男の意地とプライドをかけた戦(いくさ)や。試合で負けて泣くんやったら、グランドで勝って死んで来い!」とメンバーを鼓舞し、みんな泣きながらフィールドに散っていきました。その熱狂と並々ならぬ勢いに僕はぞくぞくっと鳥肌が立つのを感じ、その瞬間、「同志社でラグビーをやる!」と心に決めたのでした。

親に頼み込んで塾に通い、そこから猛勉強の末、中学受験で同志社へ。念願のラグビー部に入り、猛練習を続けました。高校・大学でもラグビーを続け、社会人になってからもワールドというアパレルメーカーのラグビー部に所属し、試合に出場しました。ところが少しずつ選手として注目され始めた3年目、レギュラーの座をかけた重要な夏合宿の3日前に足首を捻挫。その日は体力測定があり、自分の順番の一つ前の人がシャトルランで削った地面に見事にハマってしまったのです。みるみる足は腫れていき、1時間後には歩けない状態に。そのまま入院してリハビリをすることになりましたが、ラグビーを愛して努力を続け、ようやく注目され始めたというタイミングでのケガに、「もう無理だな」と思いました。あの時のえぐれた地面の穴は、いまでも忘れられません。

入院した先は知り合いの理学療法士が働く病棟で、そこでは脊髄損傷などの重症患者がリハビリしていました。そもそも自分は、両肩の脱臼、両足首・両手首の負傷、脳しんとう、鼻の骨折、靱帯損傷などケガばかりの選手人生。いいチームドクターはいましたが、人生で16回もオペを経験しており、「なんで自分ばかりケガをするんだろう」とずっと思ってきてきたのでした。そこでリハビリを頑張る患者さんやそれに寄り添う理学療法士の姿に心打たれ、「理学療法士の資格を取得し、選手に寄り添うトレーナーになりたい」と思うようになりました。

しかしトレーナーとして食べていくのは大変です。結婚し、子どもも生まれ、周囲からの大反対もあって2年ほど悩みましたが、最終的には妻の後押しがあり、トレーナーになることを決意。日産スタジアムに新しくできたスポーツ医科学センターでトップの理学療法士に教えを請いながら、夜は理学療法士の資格取得のための学校に通いました。

神戸に身重の妻を置いて出てきた身。ボロボロのアパートに住んで、生活費も1日500円に切り詰めました。朝8時から医科学センターに出勤して9時から患者さんを診る理学療法士の手伝いをし、15時に退勤。17時から学校に通って21時に帰路につくと、そこからレポートを書いたり調べものをしたりして就寝するのは深夜、という生活。日中の仕事はほとんど丁稚奉公と呼べるもので、トップに教えを請える代わりにほとんどただ働き同然の厳しい環境です。その4年間の暮らしぶりは傍から見れば過酷なものでしたが、僕にとっては退路を断って臨んだ背水の陣。自分の成長のためにすべての時間を費やせたことが楽しく、同じように夢を追いかける若者と同じアパートで切磋琢磨しながら努力できたことはとてもすばらしい日々でした。

4年後、32歳で理学療法士の資格を無事取得。はじめはアスリートの治療にあたっていましたが、次第にアスリートだけでない、さまざまな患者さんと触れ合うようになりました。昔のチームドクターの紹介で働いた病院では寝たきりの患者さんばかりでした。ただ上を向いて寝ているだけの患者さんは、褥瘡(じょくそう)でお尻が痛くても動くことができず、痛くても痛いと表現することもできない現状を知りました。日本には200万人も寝たきりのシニアがいるといわれていますが、それはまさに生き地獄。こんな世界があってはならない、と思いました。

かつての自分のように、ケガをしたら病院に行く、不調があってから医者に診てもらう、という意識ではだめで、未病の状態で健康を維持する努力をしていく大切さを痛感。楽しく運動ができる「フィットネスクラブ」、楽に動く身体に戻す「整体」、痛みを改善する「医療」の3つが合わさったサービスこそが必要だと感じ、2012年に株式会社GENKIを設立。医師と連携した「治療院ジム」を全国に拡げ、日本のヘルスケアに革命を起こしていきたい。これからもその目標に向かって突き進んでいきます。

(構成/岸のぞみ)

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