2024年9月、東京都文京区の江戸川橋にダンススタジオをオープンしました。
外で遊ぶのが大好きな子どもで、学校の楽しみといえば、体育の授業と給食。そんな私が人生ではじめてダンスと出会ったのは、小学3年生のときです。バトントワリングの発表会を見て感動し、「私もバトンをしてみたい!」と思ったんです。レッスンに通い始め、発表会やコンテストに出て、のめり込んでいきました。
ただ、中学校では陸上経験者だった両親の影響で陸上部に入り、バトンは中断。区の大会で新記録を出し、将来は短距離の陸上選手になりたいと考えるようになりました。スポーツ推薦で高校に進学しましたが、高校になると周囲のレベルがぐんと上がります。ケガも多くなり、思うような成績を残せなくなりました。
――このまま大学でも陸上を続けていけるのかな……?
考えた結果、陸上から離れ、別の道に進むことを決めました。
姉から勧められた、玉川大学のパフォーミング・アーツ学科に進学。この学科では、ダンス、芝居、音楽など、あらゆる芸術を体験し学ぶことができます。私は最初、芝居に興味を持ち、年に2回開催される校内公演のオーディションを受けていました。しかし、全然受かりません。
一方で、民族舞踊のオーディションは合格。大学3年のとき、アメリカの大学への短期留学のチャンスをオーディションで獲得しました。3週間、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークの大学をまわって民族舞踊を披露し、現地の大学生と交流するという非常に刺激的な経験をすることができました。
そこからは芝居ではなくダンスに力を入れるようになりました。大学での授業のほか、バレエのレッスンもスタート。卒業後は大手テーマパークで働きたいと考え、キャラクターダンスの採用に応募したものの、最終面接で不合格に。就職先が決まらないまま大学を卒業しました。ダンスは趣味にして一般企業に就職していく同級生も多く、悩みましたが、「私はやっぱりダンスで生きていきたい」と思いました。 アルバイトをしながらオーディションを受け、単発で公演に出演する日々が数年続きました。公演の出演料はお小遣い程度です。ただ、25歳のときには、憧れていたダンス集団のオーディションに合格。東京・台場のビーナスフォートのイマーシブシアターにも出演しました。
しかし、アルバイトとの掛け持ちと過酷な公演スケジュールにより、疲労で公演中に倒れてしまいます。それを機に仲間たちと少人数で企画から演出までを手掛け、公演を主宰する活動に力を入れるようになりました。
そもそも、ダンサーの寿命はそう長くありません。長くダンスに携わる選択肢としては、自分で企画・演出をするほか、トレーナーとしてダンスを教える道があります。
「いつか、自分のダンススタジオを持ちたい」
そんな夢も、芽生えていきました。
とはいえ、資金もなく、どんな準備をすればいいかもわかりません。当時は昼間に3つアルバイトをしていたので、「もっと収入を増やすために使える時間は夜しかない」と、神楽坂のBARでも働くようになりました。
あるとき、BARで常連のお客様にダンススタジオを持ちたいと話したところ、「使っていない建物があるから見に来る?」と思いがけない提案をいただきました。見学させてもらうと、とても広く魅力的な物件でした。格安で貸してくださるとのことで、とんとん拍子に話が進んでいきました。
ただ、内装工事費などの初期費用と当面の運転資金が必要です。銀行に行っては断られ、心が折れそうになりながら、何とか人生初の融資を受けることができました。
2024年9月、「シレネダンススタジオ」をオープン。子どもから大人までが通える、地域に密着した交流の場にしたいと思っています。小学生向けにはチアダンスとジャズダンスを教え、大人向けには健康体操や運動不足解消ダンスなどのプログラムも作りました。
夢への一歩を踏み出したばかりですが、このダンススタジオを、地域の人々が交流でき、健康になれる場に育てていきたいと思います。
(構成/尾越まり恵)
外で遊ぶのが大好きな子どもで、学校の楽しみといえば、体育の授業と給食。そんな私が人生ではじめてダンスと出会ったのは、小学3年生のときです。バトントワリングの発表会を見て感動し、「私もバトンをしてみたい!」と思ったんです。レッスンに通い始め、発表会やコンテストに出て、のめり込んでいきました。
ただ、中学校では陸上経験者だった両親の影響で陸上部に入り、バトンは中断。区の大会で新記録を出し、将来は短距離の陸上選手になりたいと考えるようになりました。スポーツ推薦で高校に進学しましたが、高校になると周囲のレベルがぐんと上がります。ケガも多くなり、思うような成績を残せなくなりました。
――このまま大学でも陸上を続けていけるのかな……?
考えた結果、陸上から離れ、別の道に進むことを決めました。
姉から勧められた、玉川大学のパフォーミング・アーツ学科に進学。この学科では、ダンス、芝居、音楽など、あらゆる芸術を体験し学ぶことができます。私は最初、芝居に興味を持ち、年に2回開催される校内公演のオーディションを受けていました。しかし、全然受かりません。
一方で、民族舞踊のオーディションは合格。大学3年のとき、アメリカの大学への短期留学のチャンスをオーディションで獲得しました。3週間、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークの大学をまわって民族舞踊を披露し、現地の大学生と交流するという非常に刺激的な経験をすることができました。
そこからは芝居ではなくダンスに力を入れるようになりました。大学での授業のほか、バレエのレッスンもスタート。卒業後は大手テーマパークで働きたいと考え、キャラクターダンスの採用に応募したものの、最終面接で不合格に。就職先が決まらないまま大学を卒業しました。ダンスは趣味にして一般企業に就職していく同級生も多く、悩みましたが、「私はやっぱりダンスで生きていきたい」と思いました。 アルバイトをしながらオーディションを受け、単発で公演に出演する日々が数年続きました。公演の出演料はお小遣い程度です。ただ、25歳のときには、憧れていたダンス集団のオーディションに合格。東京・台場のビーナスフォートのイマーシブシアターにも出演しました。
しかし、アルバイトとの掛け持ちと過酷な公演スケジュールにより、疲労で公演中に倒れてしまいます。それを機に仲間たちと少人数で企画から演出までを手掛け、公演を主宰する活動に力を入れるようになりました。
そもそも、ダンサーの寿命はそう長くありません。長くダンスに携わる選択肢としては、自分で企画・演出をするほか、トレーナーとしてダンスを教える道があります。
「いつか、自分のダンススタジオを持ちたい」
そんな夢も、芽生えていきました。
とはいえ、資金もなく、どんな準備をすればいいかもわかりません。当時は昼間に3つアルバイトをしていたので、「もっと収入を増やすために使える時間は夜しかない」と、神楽坂のBARでも働くようになりました。
あるとき、BARで常連のお客様にダンススタジオを持ちたいと話したところ、「使っていない建物があるから見に来る?」と思いがけない提案をいただきました。見学させてもらうと、とても広く魅力的な物件でした。格安で貸してくださるとのことで、とんとん拍子に話が進んでいきました。
ただ、内装工事費などの初期費用と当面の運転資金が必要です。銀行に行っては断られ、心が折れそうになりながら、何とか人生初の融資を受けることができました。
2024年9月、「シレネダンススタジオ」をオープン。子どもから大人までが通える、地域に密着した交流の場にしたいと思っています。小学生向けにはチアダンスとジャズダンスを教え、大人向けには健康体操や運動不足解消ダンスなどのプログラムも作りました。
夢への一歩を踏み出したばかりですが、このダンススタジオを、地域の人々が交流でき、健康になれる場に育てていきたいと思います。
(構成/尾越まり恵)
シレネダンススタジオ ホームページ
シレネダンススタジオ Instagram