
わたしの決断は、29歳のときに社内起業をしてデザインスクールをつくったことです。
幼少期は図工と体育と給食が好きな子どもでした。特に工作が好きで家族の誕生日には写真立てやエプロン、帽子など何かと手作りしてプレゼントしていました。
小学校からバレエを習っていたこともあり、高校ではダンス部へ。ダンスを踊るとともに振り付けも担当しました。父親が音楽を、姉が倖田來未さんのバックダンサーを務めていた影響を受け、大学でもダンス部を立ち上げてダンスの振り付けや後輩へのダンス指導などを手がけながら大きな大会にも出場しましたが、プロの世界の厳しさを感じ、大学卒業後はアメリカ留学を選択。ところがすぐにホームシックになり、10日で帰国しました。
次に好きだったデザインの仕事に就きたいと考えてWEBディレクターコースのある専門学校に通い始めましたが、「本当にこれで仕事ができるようになるのだろうか」と疑問に感じるように。実際に面接に行くと酷評され、何とか入社できた制作会社ではブライダル雑誌やフリーペーパーなどの編集部に入りましたがブラック企業だったり売上不振だったりする会社も多く、転職を繰り返すことになりました。
「自分にデザインの仕事は無理なのかもしれない」と自信を失っていた頃、姉の紹介で参加した異業種交流会で、日本デザイン代表の大坪拓摩に出会いました。パーティーになじめず隅っこにいたところ声をかけられ、「3年間のデザイナー生活を経て露頭に迷ってしまったこと」を打ち明けたところ、日本デザインのアシスタントに誘われました。
入社後、ホームぺージのバナーやブログのヘッダー制作などを手がけましたが、当時のわたしは感覚でデザインしていたので全然いいものが作れませんでした。最初は何度も作品を否定されて涙する日々でしたが、「センスがないんだから自分で考えるな!」と怒られ続けて「現場で必要とされているものを逆算して作る」ことを意識するようになると、2年ほどでうまく作れるようになり、気付けば売れっ子デザイナーへ。動画制作やYouTubeプロデュースなど、クリエイティブな仕事を幅広く請け負うようになりました。
評判を呼んで仕事が多数集まるようになると人手が足りなくなり、アシスタントの採用をスタートするものの、なかなか人が集まらず、定着もしません。昔から教えることが好きだったわたしは、次第に「デザインスクール事業を立ち上げたい」という気持ちが強くなり、「そんなに言うなら社内でやってみたら?」と大坪が言ってくれたため、日本デザインで固定給を受け取りながら社内起業し、デザインスクール事業をスタートさせることになりました。
1日2~3時間、45日で1人前になれるカリキュラムを作り、朝から夕方までは普通に仕事をこなしたあと、定時後にデザインスクールのカリキュラムを整理したり受講生を自宅マンションに呼んで教えたりする日々が始まりました。「現場で使えるものしか教えないこと」「センスがない人にもできる、現場から逆算したカリキュラムであること」などを前提に、YouTubeでは楽しく語り掛けるようなレッスンを意識しました。
すると次第に1年間スクールに通っても全然できなかった若手デザイナーから「YouTubeを見てできるようになった」「実務で役立つことを教えてもらえた」と喜んでもらえるようになり、気が付けばWEBデザイナーという選択肢がなかった人からも「挑戦してみたい」と受講していただけるようになっていました。
「正解が知りたい」「添削してほしい」と考える受講生が多い中で「正解のない中で、自分で考えて的に入るものを作る力」を養うこと、自立に導くこと、いいデザインの定義を論理的に説明することはなかなか難しいものでしたが、現在108期目を迎え、合計4000名の卒業生を送り出すことができました。
継続することが難しくてデザインの夢を諦めてしまう人はたくさんいます。わたし自身、根性ナシで、やりたいことがあっても「どうせ無理だ」と諦めていましたが、いまは「挑戦すれば変えられる」と信じています。これからもスクールを「夢を叶える場所」にすべく、望む人生を叶える学びを提供していけたらと思っています。
株式会社日本デザイン ホームぺージ
著書『根性なしがWEBデザイナーに憧れて』 AMAZON







