熊谷弘司

大学3年生のとき、「第一志望の会社に入社できなかったら会社を継ぐ」と宣言し、当時何の事業をやっているかもよく知らなかった家業を継ぐことを決めました。

我が家は祖父の代からプラスチック製品の製造販売を手掛ける会社を経営していましたが、幼少期の私は会社との接点はゼロ。正直何を扱っている会社なのかもよく知りません。社長業は身近でありながら「継いでほしい」と言われたこともありませんでした。

高校3年生の頃に祖父が亡くなると、会社の関係者がたくさん葬儀に参列してくれました。当然いつかは私が家業を継ぐのだろうと思った参列者の方から「他人の生活を背負うなんて大変だね」と声をかけられ、その一言で社長が追う責任を知りました。当時の自分はそのような責任を背負えるほど人間も覚悟もできていなかったため、そのときは「自分は会社を継げるような人間ではない」と思ったのを覚えています。

大学は遺伝子工学に興味を持って東京理科大学理工学部に進学。そんな大学3年生のある日、父親と2人でご飯を食べていると進路の話になり、「第1希望の会社に受からなかったら会社を継ぐ」と父親に宣言。いま思えば、継げと言われたから継ぐわけではない、「自分で決めたんだ」という実感がほしかったんでしょう。退路を断つ理由がほしかったのかもしれません。

第1志望はゲーム会社でしたが、残念ながら就職は決まらず。「じゃあ宣言通り社長になる」と決めて、仕入れ先の子ども靴で有名な企業に入社。4年間の修業期間を経て、2010年に家業の石塚に入社しました。

「ジュニアさん」と言われ、変化を嫌う古参の幹部とはぶつかることもありました。既存顧客数は1000社ほどありましたが、私は担当を持たず、新規開拓を担当。当時注力していた文具雑貨のうち、手帳カバーの取引先はわずか1社でした。「もっと取引先を増やすべきでは」と提案するも周囲からは「結果を出してから言え」と相手にされませんでした。

そこで、黒い表紙の堅いビジネス手帳カバーだけでなく、もっとカジュアルなおしゃれ手帳カバーも販売していくべきと考え、さまざまな取引先を回って話を聞き、取引先の要望に応えるため中国工場にも足を運びました。結果、取引先を増やし、売り上げも拡大。結果を出したことで周囲の見る目も変わっていきました。

2018年、35歳で社長に就任。人事評価制度を定期的に見直し、ビジネスアワードにも挑戦。千代田区内で経営革新や経営基盤の強化に取り組む企業を表彰するビジネスアワード「千代田ビジネス大賞」にて社員の待遇改善や役割の明確化、財務体質、社会貢献活動などを評価され、2022年度の大賞を受賞することもできました。

2025年に70周年を迎える当社。社長になったからといって何も思い通りにはなりませんし、うまくいかないことばかり。それでも自分で決めて責任を取るという社長業は私の性分に合っていると感じます。社長就任時に「3つの100」というビジョンを掲げました。企業が永続することを前提として、通過点としての「100年企業」に、その瞬間を共有できる「社員を100名」に、そして、その社員と家族の生活をより豊かにするために「年商100億円」を目指しています。これらの目標の達成に向けて、これからも邁進していきたいと思います。
(構成/岸のぞみ)


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