島 陽一郎

夜間や土日・祝日に診察してもらえる病院がない医療難民の患者さんを救うため、毎日夜10時まで診療するクリニックを49歳で開業しました。

福島県相馬市ののどかな田舎町に育ち、勉強は苦手な野球少年として育った私。ところが高校で野球の強豪校に入学すると、レベルの高さについていけずに退部。そんな高校1年の初夏、東京に住む叔父が教育実習生として高校にやってきました。このことがきっかけとなって叔父さんに勉強を教えてもらううちに勉強が楽しくなり、夏休みには叔父さんのいる東京で予備校通いを始めました。

1980年代の東京はホコ天で賑わい、ファッション業界が華やかだった時代。ファッション雑誌を読んで、午前は予備校に通って午後は東京の町へ繰り出すという予備校生活が楽しく、「東京で大学生活を謳歌しよう!」と勉強にも気合いが入りました。結果、高校入学時はビリだった成績も高校1年生の冬からは常にぶっちぎりの1位を維持。願い叶って東京の大学の医学部へと進学しました。

「手術が得意な医者になりたい!」と迷わず外科医へ。消化器外科で長く勤務しましたが、消化器外科はがんとの闘い。難しい手術がうまくいってがんを取り除くことに成功しても、数カ月後には転移が見つかり、結局亡くなってしまうということが数多くありました。そんなやり切れなさから30代後半に救命救急医へ。目の前の患者さんを助けられる、結果がはっきりと出る救命の仕事は楽しく「これが本当の医療だ」とさえ思えるものでした。

実際に働いてみると、救命にやってくる患者さんの多くは軽症患者さん。ウォークインと呼ばれる、歩いて病院に来られる患者さんが大多数で、日曜や祝日、夜間などでかかりつけ医院が開いていないために総合病院の救命病棟を訪れる人たちでした。救命医は重症の患者さんをどうしても優先してしまうため、軽症の患者さんを2~3時間待たせてしまうなんてこともザラ。一方で救命救急は救急車を受け入れて重症の患者さんに対応できることが最優先で求められる仕事でもあります。

――夜間も土日も関係なく開いている病院があれば、うまくすみ分けることができるのに……。

ちょうどこの頃、救命救急医兼病院長として内定が決まっていた病院がありましたが、どうせ院長をやるなら自分の思いを完全に実現できる病院を自分で開こうと決意し、2019年7月、49歳のときに「なないろクリニック」を開業しました。朝9時から夜10時まで毎日休まず病院をオープン。はじめは患者さんもスタッフも集まらず苦しい状況でしたが、次第に「あそこに行けば夜も休日もやっている」と評判になり、患者さんも集まって理念に共感してくれる素晴らしいスタッフも集まるようになりました。

翌2020年からはコロナ禍となり、他院で受け入れを拒否された風邪症状の患者さんの受け入れを開始。6畳2間の小さなクリニックで院内が大混雑するばかりかクリニックの外にも長蛇の列ができる中、1日200~300人の患者さんを診ていました。「医療難民を出したくない!」という信念から続けていましたが、不思議と嫌になったことは一度もありません。患者さんが「ありがとう」と言って感動して帰ってくれる。喜んでくれているのが伝わってくるので、1日も休まず診察していることはまったく苦になりませんでした。

現在開業5年目。池袋や銀座など、都内にも4院の開業に成功。銀座院などはなかなか人が集まらずに「夜間営業はやめないか」という意見もありましたが「1人でも必要としてくれる人がいるなら開け続ける。必要とされるクリニックであり続ければ経営としても成り立つはず」と信じて、いまも夜間診療を続けています。

その思いは国内で医師の足りないさまざまな地域、そして海外にも及んでいます。医療資源が足りないところのニーズを埋めていく。開業当時の決断はまだ道半ばではありますが、これからもこの信念のもと、1人でも多くの医療難民の皆さんの役に立てるよう技術を提供していきたいと思っています。
(構成/岸のぞみ)


株式会社ブライトスター ホームページ


おすすめの記事