和田智行

わたしの決断は、原発避難区域であり住民0人だった街で起業すると決めたことです。

福島県南相馬市小高(おだか)区は人口1万3000人弱、どこにでもある田舎町です。わたしはその街の出身で、実家は織物業を営む自営業でした。工場併設の家だったので、幼い頃から工場の人たちに育てられ、将来は家業を継いでほしいと言われていましたが、わたしが大学に進学する頃には産業が衰退し、「工場は継がなくてもいいが、小高には帰ってきてほしい」と言われていました。

しかし地方の勤め先といえば役所か工場のライン管理者。それが嫌なら起業するしかない状況でした。わたしが中央大学を卒業したのは1999年のこと。ちょうどWindows98が発売され、一般家庭にPCとインターネットが普及し始めた時代でした。これなら地方でもやっていけるのではないかと考えたわたしはまずは東京のITベンチャーに就職。トータル5年間の勤務を経て、会社の先輩と起業。2005年に福島県にUターンし、会社は東京に置きながら、わたしは福島でリモートワークを開始しました。

受託開発の仕事やブライダルジュエリーのECサイトなどを手掛けるフルリモート役員生活。そんな中、2011年3月11日、あの大震災が発生しました。家中のものは倒壊し、工場も倒壊。隣家の妹夫婦宅も全壊していました。テレビでは津波の映像が流れ、テロップには南相馬市の文字。自宅から100mの手前まで津波が来ていたことを知りました。

翌12日、ニュースを見ながら家の片づけを始めていると福島第一原子力発電所が爆発。避難区域の拡大により、原発から半径15~16㎞だった自宅もすぐに避難区域に入ることを感じ、妻と子どもたち、両親と妹家族の計10人で車2台に分乗し、移動を開始しました。震災後は知人宅をはじめ、5カ所の避難先を転々とする生活。お金があってもガソリンも食べ物も買えず、この状況を乗り越えることができないのです。お金があっても受け入れてくれるコミュニティや助け合える関係性がなくなると、あっという間に生きていけなくなるんだと感じました。

その後、震災被災者のために無償で貸し出されていた埼玉県川越市の住宅に移り住みますが、そこでの快適な生活と、数カ月に一度戻る福島の光景の乖離に愕然とします。数カ月経っても街は崩れたままで住宅は雑草に覆われ、連れていけなかったペットたちが白骨化して腐敗臭を漂わせ、物音1つしないゴーストタウン。小高は2012年4月には避難指示が緩和され日中のみ立ち入れるようになったために視察に来たいという人々も多く、わたしはそのアテンドを何度も引き受けましたが、どれだけ視察で人を案内しても小高は何も変わりませんでした。

住民が帰還するためには、仕事や店、学校や病院などの生活インフラが必要です。しかし、それらを運営する事業者からすれば、住民が帰還しないのに事業を再開することはできません。先に帰還すべきは住民か事業者か。いつまでたっても解決しない状況が続いていました。そんなある日ふと、これだけ課題があるということは、ビジネスの種がたくさんあるということなんじゃないかと思い至りました。小高で育ち、小高に帰還することを決めていた地元民の30代で、子どももいる、家庭もある、起業経験もあるのは自分だけなんじゃないか? 暮らしと仕事を同時につくっていけるのは、自分しかいない!

不安よりも「わくわく」が勝っていたように思います。住民ゼロになったからこそ、自分の住みたい街を作ろう。役員をしていた会社を退職し、2014年、まずはコワーキングスペース「小高ワーカーズベース」を開設。6席のテーブルとソファー、コンセントとWi-Fiがあるだけの簡素なものでしたが、取材に来たメディアの方にはドリンクもありトイレもある、1本原稿が書けると好評で、少しずつ広まっていきました。その後も日中訪れる住民や作業員の食事を提供する食堂「おだかのひるごはん」、帰還後の生活基盤整備の一環として仮設スーパー「東町エンガワ商店」などこれまでに約30の事業を生み出してきました。

2051年、原発の廃炉が終わるまでに100の事業を作る。作った先に目指しているのは地方の自立です。地方の課題は企業誘致や商業施設誘致で解決しがちですが、採算が合わなければ企業は撤退し、そうなれば途端にジリ貧になってしまう。地方が持続可能になるためには、社会の変化に応じた新しい事業が地元から生まれ、それが当たり前な風土を醸成することが必要だと考えています。経済合理性がなくなった地域で100の事業を生み出し「できない」が「できる」に変われば、街は途絶えずに100年200年と残っていくのではないか。わたしはそう信じて、これからも小高で100の事業を作り続けていきたいと思います。


OWB株式会社 ホームぺージ

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