保育士/えほんのおうち ゆめのき文庫 主宰 石浜繁子さん

保育士/えほんのおうち ゆめのき文庫 主宰 石浜繁子さん

大阪府豊中市の自宅を改装して絵本の図書館「絵本のおうち ゆめのき文庫」を運営する石浜繁子さん。「子どもの頃は貧しくて、自宅に絵本などなかった」と話す石浜さんが絵本と出会ったのは、54歳から始めた保育園のパート職員の仕事がきっかけだった。子どもたちと触れ合ううちに、専門知識を身に着け保育の仕事に真剣に向き合いたいと考えた石浜さんは、63歳から保育士試験に挑戦し、64歳で合格。還暦を過ぎて資格試験に挑んだ石浜さんの決断に迫る。

 大阪の中心地、梅田から阪急電鉄で約10分。豊中市庄内の住宅街に「えほんのおうち ゆめのき文庫」はある。今年81歳になった石浜繫子さんが自宅の居間を改造して作った絵本の図書館だ。1階の居間にズラッと並んだ絵本は約2000冊に及ぶ。「最初は400冊から始めて、自分の貯金や寄付から増やしていった」と言う。

 54歳から保育所で働いてきた石浜さんは、多くの親子を見てきた。ゆめのき文庫をつくったのは、「孤独な育児に苦しんでいる母親を助けたい」と考えたからだ。
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えほんのおうち ゆめのき文庫 主宰 石浜繁子さん

豊中市庄内にある「えほんのおうち ゆめのき文庫」。看板の絵は『ひっついた!!』の作者、きどまやさんに依頼した


54歳まで働くことを許されなかった

 1942年、石浜さんは東京・月島で生まれた。3歳のときに戦争が終わり、幼少期は貧しい生活を送った。
 「常に栄養失調だったから、健康診断が苦痛でした。体重が足りない人は、スプーンで肝油を飲まされるんです。どん底のような子ども時代でしたが、耐えられたのは日本全体が貧しかったから。自分だけじゃないと思えたから耐えることができたんです」

 中学校を卒業後、商社の電話交換手として働いた。たまたま駅で声を掛けられた7歳年上の男性と恋に落ちる。初デートの約束に2時間も遅れてくるような男性で、まわりは2人の関係を猛反対。石浜さんは周囲の反対を押し切り、彼を追いかけて大阪へと向かった。なかば駆け落ちのように結婚したのは、石浜さんが17歳のときだった。

 「女が外で働くものではない」と考える夫は、石浜さんが働くことを許さなかった。仕方なく、石浜さんは2人の娘を育てながら地元の公民分館でボランティア活動に励んだ。

 転機は54歳のとき。夫の定年退職と、現在の自宅の土地を購入するタイミングが重なり、お金が必要だと思ったのか、夫ははじめて働くことを許してくれた。

 「仕事を探していたときに、たまたま知人から、近くの保育園でパート社員として働かないかとお声がけいただいたんです。資格がなくてもいいというので、働くことにしました」

 0歳児から就学前の子どもを200人も抱える大きな保育園だった。

 「初日にもう無理だと思いました。どれだけ掃除をしても、子どもが200人もいるとおしっこの臭いが充満してしまうんです。耐えられないからやめよう、と。でもすぐに辞めてしまうと誘ってくれた人に申し訳が立たないから、1週間だけ続けようと決めました」

自分の子育ては間違っていた……

 保育所で働き始めた石浜さんは、子どもたちから自分の育児の間違いに気づかされることになる。
 いわゆる「教育ママ」だった石浜さんは、長女を厳しく育てた。
 「友達の家に遊びに行くときも、算数のドリルを持たせるような親でした。100点を取ってきても叱る。娘から『般若』と恐れられるくらい怖かったんです。自分自身が中学までしか出ていないでしょう。勉強をしてこなかったために、娘には勉強をさせたいと考えたんです。自分の化身のように扱いました」

 打って変わって次女は完全に放任主義で育てた。どちらも間違っていたと石浜さんは保育所の子どもたちを見て愕然とする。

 「男女共働きのはしりの時代で、朝、母親たちは働くためにまだ小さな子どもたちを保育所に預けに来ます。お母さんが行ってしまうと、子どもは後を追ってもうどうしようもないくらい泣くのね。それを見て、うちの子どもは1回もこんなふうに泣かなかったな、と気づいたんです。なんてもったいないことをしてしまったのだろう、と思いました。
 自分の子どもがかわいくて、誰よりも愛したつもりでしたが、愛し方を間違っていた。本当にダメな親だったと反省しました。自分の子育てをやり直すことはできないけれど、ここにいる子どもたちに思い切り愛情を注ごうと思ったんです」

 最初は1週間でやめようと思っていた保育士の仕事に、石浜さんはどんどんのめりこんでいく。
 「ちぇんちぇ、ちぇんちぇ(先生、先生)」となついてくる子どもたちに対して、石浜さんは我が子のように愛情を注いだ。

 「子どもたちは私が来るのを待ってくれていて、しがみついてくるんですよ。だから私、働き始めて1回も休んだことないの。有給もとらなかった。それくらい人間が変わった。いくつになっても変われるんだと思いました」

 保育士の仕事を始めて数年して、0歳児を受け持った。1年、2年と面倒を見るうちに子どもたちが言葉を話し始める。その成長の早さに、石浜さんは驚かされるばかりだった。

 「子どもたちは大人をよく見ています。きちんと専門知識を身に着けて、本気で保育の仕事に関わりたいと考えるようになりました」

 子どもたちが5歳になったとき、たまたま所長室に貼ってあった保育士試験のポスターを見つけた。「私にもできるかしら」とつぶやいた石浜さんに、保育所長が「あなたなら大丈夫」と背中を押してくれた。
 
 ところが、受験資格には「高卒以上」と書いてある。「今から高校に入学したのでは間に合わないからお願いします」と試験の事務局に直談判に行ったところ、保育所などの児童福祉施設で5年以上、かつ7200時間以上の実務経験があれば、保育士試験の受験資格を得られることがわかった。実務経験は満たしていたため、石浜さんは試験に挑戦することを決めた。

 「20代後半で一度、夜間高校に行きたいと頼んだことがあるんです。でも、夫に『なんでいまさら女が勉強するんだ』と反対されて、諦めたの。だから、勉強できることが嬉しくて。家に娘たちが使い古したノートや鉛筆があるんだけど、一切使わなかった(笑)。しかも、100円ショップではなく、デパートで新しいノートと鉛筆を買いました。ずっと憧れだった鉛筆を、60歳をすぎて持つことができて嬉しかった」

 筆記試験10科目と実技試験に向けて、石浜さんは朝から晩まで勉強した。豊中市が運営する学習室には、同じように受験勉強をしている中学生や高校生がたくさんいた。

 「試験には横文字もたくさんあったから、彼らが休憩しているときに『これ何て読むの?教えて』と話しかけると、辞書で調べてくれるの。『何の試験?』って聞かれるんだけど、『落ちたらカッコ悪いからごめんね』と言って教えなかった(笑)」

えほんのおうち ゆめのき文庫 主宰 石浜繁子さん

子どもたちのために一念発起し、保育士試験にチャレンジした


 60歳を過ぎての暗記は簡単ではなかった。石浜さんはテキストの内容をノートにひたすら書き起こして覚えた。手は腱鞘炎になり、保育所の給与は湿布代に消えた。
 それでも石浜さんが勉強を頑張れたのは、「子どもたちのため」という大義名分があったからだ。
 「自分のためにとはまったく思わなかったんです。60代になっても、パート社員でも頑張れるんだ、と。私が目標に向かって頑張る姿を子どもたちに見せたいと思いました」

 勉強を始めて2年目、64歳で石浜さんは保育士試験に合格した。当時、日本最高齢の保育士試験合格者としてメディアにも取り上げられた。その後、石浜さんは70歳になるまで保育士として働いた。

 「保育園で子どもたちと過ごした時間は私の宝物です。私は50歳を過ぎて天職と巡り合うことができました」

 後編では、そんな石浜さんが自宅に「えほんのおうち ゆめのき文庫」を開いた経緯を紹介する。

(文/尾越まり恵 写真/水野浩志)
プロフィール
石浜繁子(いしはま・しげこ)
えほんのおうち ゆめのき文庫 主宰

1942年、東京・月島生まれ。中学校卒業後、商社の電話交換手に。17歳のとき、好きな人の後を追い大阪へ。結婚し2女をもうける。1964年より現在の豊中市庄内に居を構える。地域活動に長く関わり、夫の退職を機に54歳で保育園のパートとして働き始め、64歳で保育士国家試験に合格。2018年、76歳の時に自宅を改装し「えほんのおうち ゆめのき文庫」を開設。

えほんのおうち ゆめのき文庫


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