
20歳のときに日本に留学し、成功するまで帰らないと決めました。
モンゴル人の両親のもと、モンゴルの大草原で生まれました。実家では羊やヤギ、馬、牛、ニワトリなどを全部で120匹ほど飼育していました。家から半径5㎞までの草を羊が食べきってしまうと次の場所へと2~3カ月ごとに移動する、遊牧民としての生活です。遊牧民は家族ごとに移動式ゲルで生活しており、半径10㎞圏内には家族しかいません。小・中・高は片道20㎞ほどある村にしかなかったため、小学校に進学すると村での寮生活が始まりました。大部屋に10人ほどで生活し、ガスはなく、水道も学校の中にしかなかったので、お風呂は川やバケツで汲んだ水などを利用していました。
夏には世界中から観光客が来て実家の隣にゲルを立てて寝泊まりするため、ゲルの張り方や馬の乗り方を教えたりしました。中学校を5月末に卒業した後の夏休み、兵庫県尼崎市出身の60代のご夫婦が観光ツアーで実家を訪れました。1泊2日の旅の間、馬に乗って一緒に走ったり、羊をおろす手伝いをしたり、肉の食べ方を教えたりして、夜にはたき火を囲みながら一緒に踊ったりしました。通訳さんを交えながら話す中で、「中学卒業後はどうするの? 高校には行かないの?」と問われましたが、実家にはお金がないのでその予定はないことを伝えると、思いがけず「高校へ行きなさい、支援するから」と言っていただくことができました。
「高校に通って留学資格を取得して、日本にいらっしゃい」
当たり前に遊牧民として生きていくんだと思っていた自分でしたが、両親にお金で苦労させないために何かしたいという思いもあり、日本に行けばモンゴルの20~30倍稼げるのではないかと考えて、ありがたく夫婦の助けを借りることにしました。夫婦はその後も毎年遊びに来てくれて日本について写真を見せてくれたり、学費の支払いをしてくださったりしました。高校卒業後、20歳の4月、ついに来日。このとき、「絶対に成功するまで帰らない」と強く心に誓いました。
日本語学校に2年間通い、すぐに日本語能力検定1級を取得。大学では経済学より人の心の動きを学んだほうが商売につながると考えて文学部人間心理学科に進学しました。日本に来てからは「バスがある! 電車がすごい!」とすべてに感動。学費の返済や生活費、実家への仕送りのために居酒屋や新聞配達などを掛け持ちして週6日で働き、大学卒業後は80社受けたうち採用してくれた人材派遣会社の営業担当として働き始めました。
得意先の大企業も応募者も全員日本人。当時はまだ外国人が珍しく、名刺の「ソニン・バヤル」という名前を見るやいなや「なんで担当者がガイジンやねん」と言われて冷たくされたこともありました。しかしめげずに毎日工場に通い、どなられても無視されても「おはようございます!」と入口に立ってあいさつを欠かさず、とにかくいい人材を現場に紹介するうちに認められるようになり、そのうち工場長とは喫煙室でいろいろな話をする仲に。ビジネスネームの登録の仕方も工場長に教えてもらいましたし、そうこうしているうちに営業成績も全国5位になることができました。
外国人は就活が大変です。自分が就職する際も80社受けて全滅し、結局ハローワークの紹介で入社することになりました。採用する側になってみると、採用人数も男女比も採用できる大学も決まっており、この人のほうがいいのに、と思う人材でも留学生だと採用されないなど、人材業界の課題が浮き彫りになりました。「ちゃんとやる気のある人を採用してほしい」と思う現場サイドと日本語も話せてやる気もあるのに留学生・外国人というだけで採用されない現状に課題を感じ、両者を直接つなぐ仕組みを作りたいと考えて2016年2月に独立しました。
コロナ禍には多くの飲食店や販売店などで採用が0となり、倒産も相次いだため、苦しい時期を過ごしましたが、食品関係の企業に取引先の業界を拡大したり、京都支店、群馬支店など拠点を拡大させていったりしたことで何とか乗り越え、月商1000万円から2億円を突破するに至りました。
私を日本に招いてくれた夫婦とはいまだに月に1度はお会いしてお食事をし、日本の父母として慕っています。まだまだ道半ばであり、2034年までに年商300億円、社員の中から50人の経営者を輩出したいと考えています。オフィスの清掃から従業員の生活まで、1つの企業が必要なあらゆる領域に事業を拡大し、その企業で作っている商品を世界で販売するコンビニも展開していきたい。単なる人材派遣会社ではなく、その企業の売上にも貢献できるような存在になってみんなを支えていきたいと思っています。










