鎮田翔太

26歳のとき、ホストクラブ勤めから大阪中央卸売市場に店を構える老舗水産加工会社のアルバイトへ転向しました。

小学校2年生のときから始めた野球を高校3年生まで続け、卒業後は野球部の先輩が勤める大阪の老舗和菓子店での勤務を開始。大阪本社勤務を経て東京に転勤し、店長業務を任されることになりました。東京で3年半ほど勤務して「そろそろ大阪に戻りたい」と思っていた矢先、高校の同級生から「大阪のバーで働いているので一緒に働かないか」と誘いがあり、快諾。面接に行ってみると、なんとそこは心斎橋にあるホストクラブ! 面接で「女の子は好きですか?」と聞かれて「好きです」と即答したところあっさり採用されました。

ホストクラブといってもカウンター7席、BOX席が4つほどのこじんまりした小さなお店で、働いているホスト同士も仲良し。お客さんは同世代の20代女性がほとんどです。女の子もサービス業も好きだった自分には天職で、しかも高収入。完全歩合制でしたが月に70~80万円稼げる月もあり、誕生日にはお客さんから高価なプレゼントをもらうことも。仕事は楽しく順調でしたが、あまりにも調子が良かったので次第に不安に襲われるようになりました。金髪にキラキラのスーツを着た自分が、人の子の親になれるのだろうか? 地に足のついた仕事をするべきではないのだろうか――。

25歳のとき「新店舗を出すのでそこで代表として働かないか」と誘われましたが、夜の世界にずっと留まることに不安があったこと、毎日大量にお酒を飲むことが体力的に厳しくなってきたことを感じ、思い切って大阪中央卸売市場に店を構える老舗水産加工会社のアルバイトに転職しました。

髪は金髪から黒に染め直し、キラキラのスーツも高価なアクセサリーもなし。スタッフジャンパーとスニーカーが新たな戦闘服となりました。毎月の収入はホスト時代の20分の1以下となり、マンションも引き払って1Kのアパートへと引っ越しました。アルバイト先の水産加工会社は、子どもの頃から親しくしてもらっていた大先輩が経営する会社で、商品の梱包、積み込み、営業などを担当しました。1000円のアルバイトから始めましたが、仕事ぶりを評価され、新しく立ち上げることになった子会社の代表を任せていただくことになりました。ところが、2年ほど経つと経営が厳しくなり、打開策にと新たに始めた海鮮居酒屋もうまくいかず借金が膨らんでいきました。そんなとき、知人の水産加工会社の社長と話す機会があり、「経営が厳しいならアルバイトに来ては」と誘われ、創業90年の水産物の製造及び販売を手掛ける会社・三恒(さんつね)でアルバイト勤務を開始しました。

夕方から深夜1時までは居酒屋で勤務し、そこから朝6時までは新しい会社でアルバイトをする生活。そんな中でも食品卸の会社や居酒屋で2000万円に膨らんでいた借金のことが頭から離れず、ついに十二指腸潰瘍になって入院することに。お見舞いに来てくれた社長から「そんなに悩んでいるなら自己破産してみては。阪急百貨店で店舗の責任者を任せたい」と言われ、数カ月悩んだ末に自己破産を決意。食品卸の会社も居酒屋もすべて廃業して、半年以上かけて清算。1から出直すことに決めました。

百貨店での店長業務は20代での店長経験が役に立ち、ホスト時代に培ったトーク技術で女性客の心をつかむことにも成功。33歳で正社員、42歳でEC事業部の部長にも就任することができました。販促業務、仕入れ、在庫管理、スタッフたちの調整等、EC業務にかかわる全般をリーダーとして取り仕切るほか商品開発にも携わり、次々とヒット商品を生み出すプランナーとしても評価いただくことができました。

現在では結婚をして子どももでき、マンションも購入しました。自己破産をして多くの方に迷惑をかけたという事実を一生心に刻み、その分、自分がそれ以上に誰かを幸せにしていこうという気持ちを忘れず、これからも業務に取り組んでいこうと思います。


株式会社三恒 ホームぺージ

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