大島義信

42歳で京都大学准教授を辞めて、6年後に家業である建設会社の取締役になりました。

ナカノフドー建設の創業者は私の祖父で、幼少期には父が事業を引き継いでいました。しかし「後を継げ」と言われたことは一度もなく、むしろ「自分で仕事ができるようになれ」と言われて育ちました。京都大学に通う兄の寮に遊びに行った際の楽しそうな様子が忘れられず、大学は京都大学工学部土木工学科に進学しました。当時安藤忠雄さんなどの有名な建築家への憧れもあって建築学科を目指していたのですが、最終的には入学しやすかった土木学科を選びました。

ところが土木と建築は似て非なるもので、建築学科に進学したい気持ちを諦められなかった私は、大学院は海外の建築学科などを目指しますが、土木のバックグラウンドでは歯が立たず、そのまま土木の大学院に進学することにしました。その後も建築への思いを捨てきれなかった私は構造設計の建築事務所への就職を模索しましたが、「自分にできることをやるべき」という思いと、研究室の教授から強い勧誘を受けたことから博士課程に進むことを決めました。その後、京都大学院工学研究科の助手を務めたのち、35歳で准教授のポストに就くことができました。

橋梁の維持管理のための調査・分析や非破壊検査などを専門とし、東大やJICA(国際協力機構)との共同研究やプロジェクトで、ケニアやタンザニアといった発展途上国において道路管理の手法を指導する仕事に多数携わりました。彼らにとってはインフラの開発は死活問題。国の明日を創っていくという気概があり、熱心に学んでくれるので非常にやりがいがありました。

2010年代に入ると大学淘汰の時代へ。京都大学でも研究室や教員数の削減が議論されるようになり、研究者も人とは違った競争力をつける必要性が生じていました。今後大学で生き残るために実務経験をもつ教員になろうと決め、2015年、42歳のとき、戻れる保証もないまま大学を辞め、期限付きの主任研究員として国立研究開発法人土木研究所に転職しました。大学外で実務を5年間経験すると実務経験者として正式に認定されるため、土木研究所はちょうど任期が5年だったこともあり転職先として選んだのでした。

設計基準の改定や被災地の調査、役所資料の原案作成などを担い、5年後にいざ大学に戻ろうとしたとき、ふと「大学で研究していることがあまり実社会に役立っていないのでは」という疑問が湧き上がりました。研究してよりよいデータを提出しても、国が新しいことを導入していくのには時間がかかり、成果が直結しにくいのです。この頃、実家から社外取締役にならないかと相談を受けていたこともあり、「大学に戻るよりも、家業を手伝ったほうがいままでの経験を実業に生かせるかもしれない」と考え、2020年にナカノフドー建設に入社しました。

初年度は建築や会社のことを学ぶための時間となりましたが、時はコロナ真っただ中。周囲とのリアルなコミュニケーションの時間が限られる中で「社員たちは自分のことをどう思っているのだろう」と不安になり、疑心暗鬼にもなりました。会議での発言にも自信が持てず、会社に貢献できていないという感覚が数年続いていきました。「それは知識が足りていないからだ」と自戒し、会社のことや事業のことをコツコツ勉強。経営管理大学院にも通って経営についても学ぶようになり理解が進むと発言にも自信がつき、周囲とのコミュニケーションも取れるようになっていきました。

2023年から副社長を拝命していますが、外の組織にいたからこそ見えてきたこともあり、古い体質からの脱却、会社のブランディングや差別化、理念の浸透など、自分がやるべきことも見えてきました。海外事業の拡大、業務効率化や女性が生涯働けるような職場づくりにも力を入れています。理念の浸透については毎月社内報にコラムを掲載して発信したり、社員研修の際に1コマ時間をもらい、建設業が担っている仕事の価値や会社としての理念について講義したりしています。

また、現在売上における海外比率は4割程度ですが、継続的に5割程度にまでもっていきたい。展開している海外5カ国に若い社員を研修として派遣し、海外の優秀な人材とも触れることでさらなる成長を目指してもらいたいと思っています。1933年に創業し、日本橋、国会議事堂、帝国劇場といった歴史的な建造物の建設に携わり、100年近くの歴史がある当社の次の100年に向け、今後も邁進していきたいと思います。

(構成/岸のぞみ)

株式会社ナカノフドー建設 ホームぺージ


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