unyara(うにゃら)

ミュージシャン unyara(うにゃら)さん

結婚し、家庭を持つ夢を叶えるため、14年間付き合った恋人と32歳で別れたうにゃらさん。しかし、その後の彼女に待ち受けていたのは、がん、そして子宮と卵巣の摘出、という厳しい現実だった。決断からの10年を追う。

「子どもを産まない」人間になれた

 まことさん(仮名)と別れた後、「結婚」という人生の理想を叶えるため、うにゃらさんは出会いを探した。付き合った人もいたが、長続きはしなかったという。片思いで終わった恋もある。
 「わ、素敵! と思う人とは発展しなかったし、好きだと言ってくれた人には、私が惹かれなかった……。お互いが好きになるって、改めてすごいことだと思うよね」

 結婚相手と出会えないまま、40代を迎えた。「私はもう、子どもを産まない人生を歩むんだな」と、諦めかけていた頃、うにゃらさんの体に異変が起こる。

 「もともと子宮筋腫があって、生理痛が重かったのね。鎮痛剤で紛らわせていたんだけど、あまりにも貧血がひどくなって、病院に行ったの」

 41歳になった直後、2020年初夏のことだった。医師は「すぐに精密検査をしたほうがいい」と表情を変えた。
 検査の結果は、子宮体がんの疑いあり。ステージはこの時点では告げられなかったが「すぐに手術をしたほうがいい」とあまりにも急な宣告を受けることになる。

 その年の8月、卵巣と子宮を全摘出。術後の検査の結果、卵巣がんも併発していたと診断される。すぐに、抗がん剤治療を始めた。子どもがほしいと望んでいたうにゃらさんは、この残酷な現実を、どう受け止めたのだろうか。

 「卵巣と子宮を摘出します、と言われたときに、実は、葛藤は何もなかったの。もっと悲しみとか、喪失感があるかと思っていたんだけど、あ、そっか、と思って。私はもう、子どもを産まない人生を生きていくんだな、とストンと思えた。
 ただ、そう思えたのは、40代という年齢だったからだと思うんだよね。もう1人で生きていくぞ、と半ば心を決めていたときだったから。もし30代前半とか、子どもがほしい! という気持ちがピークのときに病気になっていたら、こんなに落ち着いてはいられなかったと思う」

 病気が発覚する前は、まだ「子どもを産む」という可能性が残っていた。その可能性が、苦しいと感じることもあった。

 「まわりもさ、40代前半ならまだギリギリ産めるよって言うじゃない。そうかな、って思うんだけど、『子どもはかわいいよ』『産めるなら産んだほうがいいよ』って言われても、そんなこと分かってて、30代を生きてきたわけだから。周囲の言葉に反応するのもだんだん面倒になっていたんだよね。だから、病気になって、自分自身ももう希望を持たずに済むし、周囲からも『子どもを産まない人間』になれたから、すんごいスッキリした」

unyara(うにゃら)

病気発覚から1年、抗がん剤で抜けた髪の毛が生えてきた頃のうにゃらさん。ベリーショートの髪型がよく似合う


音楽で生きていくぞ! と吹っ切れた

 苦しい抗がん剤治療を経て、さらにパワーアップしたように見えるうにゃらさん。「手術して悪いものを取ったから、ものすごく体調が良くなった!」と笑顔を見せる。

 病気のあと、周囲からは、「オーラが変わった」、「性格が変わった」と言われるが、「自分の中では何も変わっていない」と言う。

 「ただ、わーっ! と弾けた感じはあるかもね。それまでは結婚、出産をする道と、音楽の道と両方を追い求めていたけど、出産するという一つの道がなくなったから、音楽のほうにいくぞー! みたいな。そういう意味では吹っ切れたんだと思う」

 うにゃらさんの音楽の師匠である、ミュージシャンのさがゆきさんは、うにゃらさんの変化について、次のように話す。

 「24歳で会って病気になるまでは、まっすぐ成長していったわけではなくて、やっぱり波があったんだよね。いつもハッピーなわけではないから、いろんな人生の荒波を頑張って生きている気がしたのね。でも、病気をしてからの彼女は、苦しい治療のときも、ニコニコニコニコしているの。『先生、人生っていいことしか起きないんですよ』って言い切るわけよ。
 病気をして、卑屈になったり意地悪になったりする人もいるじゃない? でも、彼女はどんどん自分を磨いていった。賢い人だな、と思う。本当の賢さって、勉強ができる、できないではなくて、生きていることを前向きに楽しみ、肯定して生きていく、ってことだと思う」(さがさん)

unyara(うにゃら)

うにゃらさんの音楽の師匠、さがゆきさん。5歳にして歌手になることを決意。中村八大さん率いるグループで専属歌手をするなど、幅広く活躍。個人指導のほか、即興ワークショップなどでも20年以上、音楽を教えている


勇気を出して歌のワークショップへ

 4歳のときにピアノを習い始めたのが、うにゃらさんと音楽の出会いだ。中学生のときは合唱部に入り、家では親に買ってもらったシンセサイザーを弾いた。時代は“小室ファミリー”の全盛期。

 「小室哲哉になりたくて、シンセサイザーを弾きながら、『こんばんは、小室哲哉です』とかって、ものまねしてた(笑)」

 アメリカ留学や大学受験などでしばらく音楽から離れていたが、家庭が荒れていた暗黒の20代前半、たまたま所沢の駅前でサックスとのDUO(デュオ)でギターを演奏をしていた男性を見て、足を止めた。

 「普通、路上ライブってフォークの弾き語りが多いじゃない。でも、そのお兄さんはジャズギターを奏でていて、『きゃあ、素敵!』と思ったのよ。何回か見かけるうちに話しかけて、そのうちライブにも通うようになった。彼の共演者の歌の人を見て、私も歌ってみたいなって思ったの。詳しく聞くと、さがゆきさんという師匠に習っている、と。しばらくしてから、インターネットで検索して、ワークショップを申し込んだの。当時は頭の中がごちゃごちゃしてたから、現実逃避の場所がほしかったのかもしれない」

 勇気を出して行ったワークショップで、うにゃらさんは、はじめてさがさんと対面する。

 「第一印象は、すごい! の一言。こんな人がいるんだ、と圧倒された。ワークショップには10人くらいいて、1人ずつ好きな歌を歌うんだけど、私はジャズのスタンダード曲の、『Like Someone in Love』を歌ったの。それまでは本当に内気で、人前に立つのもあり得ないと思っていたから、人前で歌を歌うなんて、本当にはじめてだった」

 そんなうにゃらさんを、さがさんは褒めてくれた。
 「いい声だね、続けなさい、って言ってくれた。それがすごく嬉しくて、歌をやりたい!と思ったんだよね。さがさんとの出会いが、私の人生を変えた」

unyara(うにゃら)

20代半ばのうにゃらさん。「歌」という新しいジャンルに踏み出したのは、さがゆきさんとの出会いがあったからだ


 それから、さがさんの個人レッスンを受け、本格的に歌を練習した。26歳の頃からは、ライブ活動も始めた。

 「ライブで拍手をされると、単純にうれしい。認められたい、評価されたい、という思いはある。でも、それ以上にやっぱり、音楽、もっと言うと私は“音”が好きなんだよね。ドラムの音も、雨の音も、川の音も好き。じーっと何時間でも聞いていられる。つらいときは音楽は心の支えになるし、楽しいときは楽しいときで歌いたくなる」

音楽を知ることで、強くなった

 さがさんに、うにゃらさんと最初に会ったときの印象を聞いてみた。

 「ただ明るいという感じではなく、毅然とした強さを感じた。最初は、決してうまいとは言えなかったよ。最初からうまかったら、習う必要ないじゃない。でも、レッスンしていたらメキメキ上手になって、声も出るようになった」(さがさん)

 さがさんは、師匠としてうにゃらさんにどんなことを教えたのだろうか。

 「根拠のない自信を持て、って言った。何かができないと自信が持てないんだったら、誰も自信なんて持てないでしょ。
 それで、1年くらい経ったときに、“見えない戴帽式”っていうのをしたの。看護師さんが独り立ちするときに帽子を被せてもらうように、彼女にも見えない帽子を被せた。目には見えないけれど、お金には換算できない価値があるんだよ。一度被ったら、二度と取れないから、誇りを持ちなさいって。これは誰にでもするわけじゃない。うにゃらはその価値を理解してくれると思った」(さがさん)

 さがさんがうにゃらさんに教えたのは、歌のテクニックだけではない。
 「歌を歌うってことは、自分をカッコよく見せたり、うまさを自慢したりするのではない。音符を通した先に、どんな景色が見えるのか。音楽そのものというよりは、哲学のような話をしていたかな。そういうことを、彼女はよく理解してくれた」(さがさん)

 これからのうにゃらさんには「期待しかない」と話すさがさん。
 「30代は、結婚や出産に悩んでいたこともあったと思う。でも、完全に吹っ切れているよね。今は、音楽が彼女の命になっているから。音楽をちゃんと知っていくことで、強くなった。本当にそう思う」(さがさん)

 恋人と別れて10年。うにゃらさんは今も結婚していないし、子どもを持つ夢も絶たれた。失ったものを見れば、そう表現できる。
 一方で、「音楽があったから、乗り越えられたことはたくさんあった」と話すうにゃらさん。失恋や病気、さまざまな出来事によって、うにゃらさんは人として強くなったし、音楽性はより深くなった。それが、彼女がこの10年で手に入れたものだ。

(文・尾越まり恵)

プロフィール
unyara(うにゃら)
ミュージシャン

1979年6月生まれ、埼玉県入間市出身。大学中退後フリーターになり、働きながら24歳で歌を始める。現在は会社員のかたわらミュージシャンとして活動。2020年に卵巣がんと子宮がんを併発。がんサバイバーでもある。
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