翻訳者 ネルソン聡子さん

翻訳者 ネルソン聡子さん

日本では晩婚化の影響で初産年齢が上がっており、妊娠のために医療の力を借りることは、いまや特別なことではない。42歳でアメリカ人男性と結婚したネルソン聡子さんも、不妊治療を経験した1人だ。約1年の治療の末、夫婦で話し合い、フィリピンの遠い親戚から養子を迎えることを決意した。前編では、その決断に至るまでの経緯について紹介する。

 2022年8月、ネルソン聡子さんは後に娘となるシンシアちゃん(仮名)と、パソコンの画面越しにはじめて対面した。コロナ禍真っただ中で、フィリピンに住む親子と直接会うことは叶わなかった。
 画面に映ったあどけないシンシアちゃんの顔を見た瞬間、「かわいくて、心を撃ち抜かれた」と聡子さんは振り返る。

翻訳者 ネルソン聡子さん

フィリピンから養子に迎えたシンシアちゃんは、今年2歳半になる(写真提供/ネルソン聡子さん)


 しかし、海外から養子を迎えることは、日本ではかなり稀な事例であり、法的な手続きなど、超えるべきハードルが多数待ち受けていた。実際に日本にシンシアちゃんを迎えたのが、オンラインでの面会から7カ月後、戸籍上の家族となれたのは、さらにそこから9カ月後のことだった。

翻訳者から保育の世界、そしてまた翻訳者へ

 聡子さんは埼玉県で生まれ、小学3年生のときに茨城県に転居した。製薬会社の営業職(MR)の父親と、家業の薬局で働く母親、2歳上の兄の4人家族。私立の中・高一貫校を卒業後、大学は東京都内にある女子大学の英文科に進学した。
 英文科を選んだのは、中学生のときにハリウッド映画を観て「翻訳者になりたい」という夢を持ったからだ。

 「当時、多くのアメリカ映画を字幕翻訳者の戸田奈津子さんが翻訳されていました。戸田奈津子さんがトム・クルーズさんと愛称で呼び合ったりしているのを見て、『翻訳者になれば、ハリウッドスターと会えるんだ!』と思って(笑)。いま思えばものすごくミーハーな動機でした」

 高校時代にはイギリスに1年間、大学時代はアメリカに10カ月間留学。大学を卒業後は、在学中にアルバイトをしていた映画の配給会社でそのまま働き続けたが、今後のキャリアを考えたときに「英語を話せるだけでは頼りない。できれば、もう1カ国語を習得したい」と考えるようになる。
 当時日本でも劇場公開され大ヒットしていたイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を見た聡子さんは、ロベルト・ベニーニの話し方も相まって、「イタリア語のリズムが美しい」と感じたと言う。イタリア語を習得しようと決意し、お金を貯めてイタリアに留学した。

 そうして英語とイタリア語を習得し、26歳のときに2カ国語の映像字幕翻訳者となった。
 その後、29歳で転職しTSUTAYAで扱うレンタル映画のパッケージのディレクションを担当したり、イタリアの展覧会を開催する企業でイタリア語でのPRマーケティングに携わったりもした。

 そこからさらに、聡子さんのキャリアは変化する。イタリアの乳幼児教育の仕組みを日本の保育園に取り入れるプロジェクトに参加し、保育の世界へ。保育園で働きながら保育士の資格も取得した。

 「一度語学から離れて、保育の世界に入ったことが、人生の中でも大きな転機になりました。子どもたちの家庭環境や教育のバックグラウンドと向き合うことは、自分自身の幼少期と再び対峙することでもありました。自分の育った環境がこうだから、いまの自分はこんな考え方をするのかな、などと考えたりして、自分のこれまでの人生が整理できたんです。その上で、この先どう生きていこうかと考えるきっかけになりました」

 38歳で聡子さんは再び翻訳の世界に戻りたいと考え、今度はフリーランスの翻訳者となった。

 「30代で再び翻訳の仕事に戻ってからは、20代の頃とは言葉との向き合い方がまったく違うものになりました。やはり多くの経験を積み、違う業界や文化を知り、たくさんの人と関わっていく過程で自分の中に蓄積されたものがあるのだと思います。一番の変化は、言葉1つ1つにすごくこだわるようになったこと。翻訳の仕事は、言葉そのものの意味を知っているかどうかよりは、どれだけ多様な視点から考えた上で言葉の意味や文脈をつかめるかどうかが大きいと思います」

翻訳者 ネルソン聡子さん

保育士の資格を取得し、保育園勤務を経て、再び翻訳の仕事に戻った


42歳のとき、アメリカ人男性と結婚

 一方、プライベートでは、20代で結婚を考えていた男性がいたが、結果的に結婚には至らず、その後、結婚の優先度が上がらないまま仕事中心の生活を送ってきた。特に焦ることもなく、気が付けば30代後半になっていた。 

 そんな聡子さんがいまの夫と出会ったのは、2017年。友人と一緒に出掛けた東京・台場のメキシカンフェスでたまたま声を掛けられ意気投合した。
 米サンディエゴ出身のアメリカ人の父親とフィリピン人の母親から生まれたハーフの黒人男性で、日本の学校で英語講師の仕事をしていた。

 「夫がサンディエゴで知り合った日本人の友人が、帰国後、東日本大震災で亡くなってしまったそうです。夫はご家族に彼の持ち物を届けに行き、そこから日本のために何かしたいという思いが強くなり、日本で働き始めたと聞いています」

 すぐに交際がスタートし、その2年後、聡子さんが住む鎌倉の海辺で、夫から「Will you marry me?」(結婚してくれますか?)とプロポーズされた。

 しかし、結婚が決まった瞬間にコロナ禍になり、アメリカに住む夫の両親とは会うことができず、顔合わせはオンラインとなった。

 「私の両親には、まず夫の写真を見せました。母親は写真を見た瞬間、固まっていましたね(苦笑)。反対というよりは、戸惑いですよね。今まで直接肌の黒い人種と会ったことはなかったと思うので。
 その後、顔合わせの食事会を設けて、そこでは日本の慣習に合わせて、『お嬢さんをください、幸せにします』といった言葉を夫に教えて、日本語で言ってもらいました(笑)」

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2年ほどの交際を経て、2020年にアメリカ人男性と結婚


3回の体外受精を経て決断、「養子を迎えよう」

 結婚生活がスタートしたとき、聡子さんも夫も42歳。
 「子どもがほしいね」と結婚後すぐに話し合い、自然妊娠を少し試した後、すぐに病院に行きタイミング法からスタートして人工授精、体外受精と不妊治療を進めた。

 2回目の体外受精が終わる頃、夫が「養子を迎える選択肢もあるよね」と言った。子どもがほしいと思っていた2人にとって、子どもを持たず夫婦2人で生きていくという選択肢はなかったと言う。

 「アメリカでは養子縁組で子どもを迎える家族は多く、そんなに珍しいことではないので、夫には抵抗も偏見もなかったのだと思います。でも、私は不妊治療を頑張っている最中で、結果を出したいという思いが強かったんですね。それで、当時国の補助が受けられる3回までは体外受精にチャレンジしたいと考えました」

 しかし、3回目の体外受精でも子どもは授からなかった。

 「体外受精1回につき30~40万円が必要です。金銭的にも厳しく、さらに2回目、3回目と続けるうちに私の精神的な負担も大きくなっていました」

 聡子さんは夫の言葉を思い出し、そこから2人は養子縁組の選択肢を本気で考え始めるようになった。

(文/尾越まり恵 特記のない写真/齋藤海月)
プロフィール
ネルソン聡子(ねるそん・さとこ)
翻訳者

大学卒業後、映画配給会社に就職。営業の傍ら作品のシノプシス翻訳や作品自体の翻訳を経験する。その後は自分の世界を広げようと海外とのプロジェクトを行う会社に転職、プレスリリース等の翻訳、PRやマーケティングを担当。教育関連の仕事に携わった後フリーランスに転向し、2013年より改めて翻訳業を開始、映像翻訳を行う。2024年現在、翻訳者仲間とともに、海外の養子縁組に関するドキュメンタリーや当事者のインタビュー映像を翻訳・配信するプロジェクト(Adoption_For_Happiness)も進行中。

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