36歳のとき、100年続くビジネスモデルに作り変えると決めました。
実家は1911年創業の文具店「石井弘文堂」。創業者で曾祖父の石井哲司が岡山市に開業しました。幼少期より「何となく家を継ぐことになるのかな」と感じていた私は、東京の大学在学中に軽い気持ちで「いつかは実家に戻る」と父に約束。就職氷河期で就職活動は難航し、実家の仕入れ先の1つであったキヤノンにコネ入社を果たしました。4年ほど経った頃に「実家に帰って会社を継ぐ気はあるのか?」と聞かれ、特にやりたいこともなく、就職氷河期という時代背景もあったため「継ぎます」と返答。26歳で岡山に戻り株式会社石井事務機センターに入社しました。
入社後は法人営業として、複合機をはじめとするオフィス商品を販売する仕事を担当しました。地元はこれまでの関係性で購入を決めてくれるので営業自体はそれほど大変ではありませんでしたが、自社社員とは微妙な距離を感じていました。
この頃、家業の経営状況は厳しかったようですが、私はまったく気づいていませんでした。そんな2009年、突然父親に呼び出され、「会社が潰れるから他に行ってほしい」と言われました。
――まじ!?
私は驚き、経営状況に気が付かなかった自分自身に腹が立つとともに、こんなことなら東京の会社にいたほうがよかったのでは、とさえ思ってしまいました。ですが、その一瞬の混乱を超えると、意識は切り替わり、何とかしなければという気持ちが湧き起こってきました。当時創業99年目。自分は100年企業を受け継ぐ4代目として岡山に戻ってきたのです。社員や母親を路頭に迷わせるわけにはいきません。「とにかく銀行に行こう!」と融資の依頼に出かけ、「あなたが本気でやるなら支援しますよ」という言葉を取り付けて、「やります!」と答えました。そう答えるしかなかったのです。
改革に着手しますが、父親とは折り合いが悪く、喧嘩してばかり。直後は社員も大量に離職する厳しい時代が続きましたが、2~3年経つと経費削減効果によって経営が安定し、少しずつ余裕が出てきました。ところが銀行からは「OA機器の販売だけではこれ以上支援できない」と言われ、新規事業を考えざるを得なくなってしまったのです。
35歳のそんなある日、とある客先から「PCを1台持ってきてほしい」という依頼を受けました。1年ほど前に買い替えたばかりだったので、「処理速度が速く効率のいいPCに買い替えたいんだな」と感じました。そのときふと、我々は働くための道具としてOA機器を販売しているけれど、本当に販売するべきは「よりよい働き方」なんじゃないか? そんな考えが思い浮かびました。翌年36歳になるとそのアイデアを具現化し、販売するものの価値を再定義、まずは自社で試し、まねしたいと思ってもらえる企業を目指そうとさまざまなITツールの導入・活用方法の模索を始めました。
それに伴い経営理念を見直し、ビジョン・ミッションを作り直し。来社体験型のオフィスの構築、新卒採用の開始、石井事務機センターという古い社名の変更など、次々に改革を進めていきました。
生産性を人事評価に連動させたところ、1人あたりの粗利率が社長就任以降170%に急上昇。誰もがうまくいかないと言った新卒採用も初年度からうまくいき、4年前に岡山県の就職したい企業ランキング1位を獲得しました。
「これがほしい」から「これがしたい」へ。顧客と社員の心をうまくマインドチェンジさせることに成功した私は、次は日本の中小企業のワークスタイルモデルカンパニーになるという目標のもと、岡山市内だけでなく全国の中小企業にアプローチする取り組みにも力を入れています。地方展開に困っているITベンチャーと働き方を変えていきたい地元企業をつないでいきたい。これからも挑戦は続いていきます。
(構成/岸のぞみ)株式会社WORK SMILE LABO ホームぺージ