
29歳のとき「父の想いの詰まった会社」をより良い会社とするために看護師から転身し、鈴機商事に入社することを決めました。
建設機械レンタル会社を経営していた父のもと、幼少期から展示会や賀詞交歓会、パーティーなどに連れられて行く機会が多かった私。大人に囲まれながら社長の娘として見られる機会が多かったので、「失礼がないようにしっかりしなくては」と意識しながら育ちました。一方で、建設機械業界は男社会。私には関係ない世界だと考えていました。
高校の頃、頭を縫うケガをしてしまった際に看護師のやさしさに触れてあこがれを持つようになり、「女性が生きていくために手に職をつけたほうがいい」と考えたこともあって高校卒業後は看護学校に進学。1年間の実習に加えて国家試験の勉強が始まるようになるとごはんが食べられなくなり、体重が30㎏台になるなど苦労しましたが何とか卒業。神奈川県内の病院で勤務を始めました。
整形外科や消化器内科などで勤務したのち、結婚・出産を機に退職。子どもが3歳になる頃には別居しシングルマザーとなりました。26歳のとき、父の会社のグループで損害保険代理店を営む兄の会社を手伝ってほしいと父から頼まれ、看護師にはいつでも戻れると考えて承諾。父は寡黙で仕事一筋な性格で、それまでお願いごとなんて聞いたこともありませんでした。「ただごとではない」と感じ、営業兼事務員として働き始めました。
翌27歳のときに、父の肺がんが発覚。手術の立ち合いや身の回りのケアなどをしながら父を見守りました。その後、父はすぐに仕事に復帰していましたが、私が29歳のときに再び肺がんの手術をすることに。術後またすぐに職場復帰した父でしたが、1週間後には再入院となってしまいました。その後も、「会社はどうだ」「社員はどうなっているんだ」と毎日仕事のことを気にかける姿に心を打たれ、会社や社員に対する熱い思いを感じました。「会社に行くから車を出せ!」と怒鳴り、私が応じないのを見かねた父は、「病院まで迎えに来い」と会社に電話をする始末でした。
――父の思いの詰まった会社を発展させたい。
その後、闘病の末に父が亡くなったことを機に鈴機商事の取締役に就任。実践で経営を学びながら並行してMBA(経営学修士)を取得し、会社の知見と経営の知見を増やしていきました。
父の死後、社長職は既存の社員が引き継いでくれたのですが、創業者の娘というだけで役員となった自分のことがみんな面白くないことは一目瞭然でした。「男社会では実績をつくることが何よりも大事だ」と考えて販売促進会では売り上げに大きく貢献し、コロナ禍における建機展開催の際には実行委員長にも立候補。オペレーションがうまくいっていない、管理が行き届いていないところは積極的に改善していきました。部署間のコミュニケーション活性化や作業の仕組み化・効率化、有休の取得しやすい環境づくりなどにも尽力。働き方改善も積極的に進めていきました。
2024年、ついに代表取締役社長に就任。完全週休2日制を導入し、人事評価制度も一新、DX(デジタルトランスフォーメーション)も進めていきました。会社としての心得として存在していた「3信条」を経営理念、行動指針としてわかりやすく定め直すなど、理念経営にもシフト。これまでは個人主義・売り上げ至上主義の会社でしたが、「チームで協力し合い成果を出すこと」「付加価値を高め利益率を高めていくこと」にも注力していきました。
新体制が始まり、約1年。「会社の雰囲気が良くなり、働きやすくなった」「お客様が戻ってきた」といった声が社員から聞こえるようになってきました。「神奈川No.1の地場建機レンタル会社」を目指し、これからも父の創業した会社を発展させていきたいと思います。私は大好きな父の死というショックな出来事がきっかけとなりましたが、できると信じて挑戦し続ければ、必ず道は拓けると思います。
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