エピテーゼという選択肢があることを知ってほしい
人はなぜ服を着て、メイクをするのか。
この問いに対し、ヒューマンアートスクールのスクール長を務める牧野エミさんの答えは明確だった。
「それは、命をつなぐため」
人は人と関わりながら生きていく。その中で容姿を整えることは、「人間の本能的な行動」だと牧野さんは言う。
「アマゾンに住む裸族の人たちも、羽や葉で体を飾ったり、土でペイントしたりします。あれは、敵対する人に対して自分を優位に見せるため。それは命が懸かっているからです。
異性によく見られたいと思うことも、究極は種を残していくためですよね。容姿を整えることは、寝食と同じくらい大切な、命をつないでいく行為だと私は考えています」
牧野さんは体の欠損した部位を補うための人工補綴(ほてつ)物の「エピテーゼ」を製作しながら、その技術を教えている。エピテーゼとはドイツ語で、「補綴する(外部から補う)」という意味を持つ。
病院から患者を紹介されてエピテーゼを製作する場合もあれば、インターネットで検索して牧野さんにたどり着き、依頼を受けることもある。
「エピテーゼの素材はプラチナムシリコーンで、尿道カテーテルや哺乳瓶の口の部分などにも使われるほど安全性が高いものです。アレルギーを起こしにくく、皮膚へのダメージが少ない。また、エピテーゼは着脱可能で、汚れたら取り外して洗うことができます」
指や足、胸や顔などあらゆる部位をエピテーゼで再現が可能だというが、最もニーズが多いのは、乳がんの患者。依頼者の希望の形に作れることもエピテーゼの特徴だ。
「両胸を切除した方が、もともと小さなお胸だったけれど、せっかくだから大きめに作ってほしいと言われることもあります。一方で、すごく大きなお胸で大変だったので、今度は小さめにお願いしますと言われることも。本当に、悩みは人によってさまざまです」
そのほか、上顎洞(じょうがくどう)がんや副鼻腔がん、耳下線がんなどで顔の一部を欠損した人からの依頼もある。
病気で欠損した部分を補う方法として日本で広く知られているのは再建手術だ。こちらも年々技術が上がっており、保険適用となるケースも増えている。しかしメスを入れるため体に負担があったり、小さな子どもは手術が難しかったりする場合もある。また、残存部位が少なければ再建手術はできない。特に顔面は再建手術をするのが難しいという。
「エピテーゼにも再建手術にもそれぞれメリット・デメリットがあり、何が合っているかはその人の状況によります。大事なのは、患者さんが選べること。エピテーゼという選択肢があることを知らなければ、選ぶこともできません」
作り手が増えれば、もっと求めやすくなるはず
多くの人に求められる技術でありながら、「エピテーゼは日本ではあまり知られていない。医師でも知らない人は多い」と牧野さんは言う。
その理由は、日本が国民皆保険の制度を導入しており、「命を救う」医療が最優先されているからだ。
「命を救った後の生活には関与しないのが日本の医療です。もちろんそうでなければ、現状の保険制度はあっという間に破綻してしまうでしょう」と話す牧野氏だが、とはいえ、患者の生活はその後も続いていく。そのQOL(生活の質)を少しでも高めるために牧野さんはエピテーゼを製作しているのだ。
エピテーゼを提供して、「これでもう少し生きていける」と明るい顔になった患者を、牧野さんは何人も見てきた。
「少なくとも、エピテーゼがあれば生きやすくなる人がいます。世の中に知られていないために作り手がいない。作り手がいないから広がっていかない。作り手が少ないから金額も高くなってしまいます。
私が製作を始めた当初、国内にはエピテーゼを作れる専門家は3人くらいしかいなかった。そうすると、市場の原理で言い値で取引されるために金額が高くなるんです。乳房1つが当時120万円ほどして、『一生モノ』と言われていました。でも、プラチナムシリコーンがいくら耐性が強いとはいえ、一生は使えないんですよ。欲しかったらお金を払えよと作り手が強気に商売するのは違うよな、と。せめて各都道府県に1人でも製作者がいれば、交通費もかからなくなるし、価格が安くなっていくだろうと考えました」
エピテーゼをめぐる状況に課題を感じ、「自分が教えて、作れる人を増やしていこう」と考えた牧野さんは、2007年にヒューマンアートスクールを立ち上げた。
「誰かの役に立ちたい」と考えスクールへ
東京・新宿区のヒューマンアートスクールでは、基本的に1対1の個人レッスンで、生徒たちが希望の日程を牧野さんと調整してレッスン日時を決めていく。週に1回のペースの生徒もいれば、月1回の生徒もいる。青森県や沖縄県にも生徒がいて、遠方の場合はオンラインで対応している。
「1つの工程が終わるたびに完成品を送ってもらい、チェックしています。何が悪いかをきちんと伝えなければ改善されませんから、写真を撮ってワードファイルに貼り、書き込みをして戻しています。最初はオンラインでのレッスンは躊躇したのですが、この方法であれば教えられるなと思いました」
エピテーゼの製作には手先の器用さが必要な気がするが、「そんなに難しいものではない。誰でも作れる」と牧野さんは言う。大事なのは「コピーする」能力。実際の体の部位をよく観察し、再現していく。
「胸はシンプルで作りやすく、初心者に向いています。難しいのは顔の眼窩(がんか)です。目の周りはしわやまつ毛、眉毛の生え方など人によって特徴が異なるため再現するのに時間がかかるんです」
生徒たちは「社会貢献をしたいと考えて来る人が多い」と牧野さん。
「誰かの役に立ちたいという思いにプラスして、ものづくりが好き、絵を描くことが好き、という人がほとんどです。当事者の方で、乳がんになったことで自分のものだけでなく他のがん患者にもエピテーゼを作ってあげたい、という方もいました」
3年前からヒューマンアートスクールに通う小川夏帆さんは、テレビ番組でエピテーゼを知り、情報を検索してヒューマンアートスクールにたどり着いた。会社員として働く傍ら、2年間、週1回のレッスンを受けて、眼窩の技術まで習得している。
牧野さんの印象として、小川さんは「考え方の柔軟さ」を挙げる。
「慣れてくると自分なりの方法を試したくなるけれど、それも先生は否定せず、『それならこういう方法もいいのでは?』とアドバイスをくれるんです。最終的にいいものが出来上がればいい。自分の方法に執着やこだわりを持たない考え方がすごく好きです。レッスンをして技術を習得すればするほど、新しい発見があります」(小川さん)
胸だけ作れるようになる、手足、眼窩まで習得するなど、スクールで学ぶ領域は生徒が決められる。開校からこれまでの卒業生は70人ほど。全員がエピテーゼに携わっているわけではないが、卒業生の中には個人で製作を請け負ったり、スクールを開いたりしている人も増えてきている。
技術は使わなければ忘れていく。卒業後も復習したり、分からないことを聞いたりするために生徒が牧野さんのもとを訪れ、関係性が続いている場合も多い。補習は無料だという。
「それは教える側の責任だと思うんです。ここは義務教育の学校とは違いますから、教師が一方的に教えて終わりではない。技術が伝わり切らなければ、生徒がレッスンに払ったお金は無駄になってしまいます。生徒たちはエピテーゼに懸ける熱い思いを持ち、一生懸命働いて貯めたお金と、仕事の合間の貴重な時間を使ってスクールに来てくれています。だったらそれに見合うことを私もしなければならないと思っています」
牧野さんの誠実さが伝わるからこそ、生徒も安心してレッスンに向き合えるのだろう。
次回、後編では、牧野さんとエピテーゼの出会いや、どのように技術を習得したのかについて紹介する。
(文・尾越まり恵)牧野エミさんプロフィール
ヒューマンアートスクール スクール長
北海道むかわ町生まれ。母親が経営する美容室を手伝うため美容師免許を取得。31歳で上京し港区で美容室を開業。39歳のときに過労で心身を壊し、米ロサンゼルスを訪れた際にハリウッドの特殊メイクを習得。医療用メイクからエピテーゼの存在を知り、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で技術を学ぶ。2007年にヒューマンアートスクールを開校し、リカバリーメイクアップとエピテーゼの技術を伝えている。東京・新宿の西武学園医学技術専門学校と、広島国際大学の義肢装具科でも講師を務める。
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