山古志住民会議 代表 竹内春華

山古志住民会議 代表 竹内春華さん

新潟県山古志(やまこし)村は2005年の市町村合併により自治体としては消滅し、長岡市に編入合併された。しかし村民たちは「山古志」の住民であることに誇りを持ち、村おこしに力を入れている。竹内春華さんはそんな山古志村の村民が集まり村の未来を考える「山古志住民会議」の代表を務める。人口800人の小さな村が注目を集めるきっかけとなったのは、2021年にブロックチェーンの技術を使った「NFT(非代替性トークン)」を発行したことだ。山古志村のNFTを購入した「デジタル村民」は、いまやリアル村民の数を超え、1600人にのぼる。前編では竹内さんが山古志村の復興に関わったきっかけと、住民会議の代表になった経緯を紹介する。

新潟県中越地震からの復旧・復興をサポート

 新潟県長岡市の南東部に位置する旧山古志村は、標高150~700メートルの山間(やまあい)の村だ。人口は現在約800人。上越新幹線の長岡駅から車で30分程度の距離だが、村に入ると、一瞬にして眼前の景色は変貌する。

山古志村

山古志村を象徴する棚田の風景(写真/Sho Hirose)


 山古志村は古くから闘牛場やニシキゴイの養殖で知られ、NHKの朝の連続テレビ小説の舞台になったこともある。だが、山古志の名前を日本国民が知ることになった一番のきっかけは、2004年の新潟県中越地震だろう。大きな直下型地震により、山古志村は壊滅的な被害を受けた。村民たちは村への立ち入りを禁止され、避難生活を余儀なくされた。
 地震が起こった10月23日には、毎年追悼式が行われている。「山古志村で最も大事な1日」と竹内春華さんは話す。

 長岡市に隣接する魚沼市の旧広神村で生まれ育った竹内さんが山古志村と密接に関わるようになったのも、この地震がきっかけだった。

 竹内さんは「教師になりたい」と考え、京都の大学で教職課程を選考した。もともと家がお寺だったこと、日本の歴史が好きだったことが京都を選んだ理由だと言う。

 大学卒業後に受けた最初の教員試験は不合格となり、竹内さんは地元新潟で塾講師の仕事を始めた。地震が起きたのは、学習塾で授業をしている最中だった。
 「これまでに経験したことのない揺れが、下からドンと突き上げてきました。中学生の生徒たちが誘導してくれて一緒に避難しました」

 その1年後、教員試験に再挑戦するかを悩み、学習塾を退職。失業保険の手続きでハローワークを訪れた竹内さんは、求職情報の中に山古志村のボランティアセンターの職員募集を見つけた。

 「小千谷市の高校に通っていたとき、クラスメイトに山古志村から来ていた友達がいたんです。一度家に遊びに行ったこともあって、『あの子はどうしているかな』とその友人の顔が浮かびました。求人票には『帰ろう、山古志へ』というキャッチフレーズと、まだ仮設住宅で暮らしている村民たちが村に帰るお手伝いをする仕事です、としか書かれていませんでした。これまでボランティア活動の経験もありませんし、教員試験の勉強をしながら、数年関わってみようかという程度の軽い気持ちで応募しました」

 2007年4月、竹内さんは災害ボランティアセンターの生活支援相談員として採用された。仮設住宅で暮らす村民が孤独にならないよう声をかけて回ったり、慰問コンサートなどのイベントを開催したりするのが主な業務だった。

 「悲壮感が漂っているかと思っていましたが、村民の方はみんなすごく元気で明るかったんです。当時、住むことはできないけれど山に入ることは許されていたので、山菜を採ってきて仮設住宅で食べたりして、『山の暮らしを仮設住宅でも体現しよう! いつか山古志に帰るぞ!』というパワーをひしひしと感じました」

 地震が起こったとき、山古志村の人口は2200人ほど。その後、仮設住宅での生活を経て、約7割が村に戻った。2007年12月、全村民が帰村し、村では帰村式が行われた。

 「みんな山古志にアイデンティティを感じていて、山古志で生きて、山古志で死んでいきたい。そう考えて村に帰って行きました」

 村民が山古志に帰ったことで、翌2008年3月で災害ボランティアセンターは閉鎖されることになった。復旧期を終え復興期となり、地域復興支援制度として新たに地域復興支援員が設置された。

 「地域復興支援員にならないかとお声かけいただき、そのまま山古志村に残ることになりました。もっとここで役に立ちたいと思ったので、迷いはまったくなかったです」

山古志住民会議 代表 竹内春華さん

2007年から地震からの復旧・復興を担う職員として山古志村で働き始めた


 復旧期は家屋の片付けや引っ越し作業などを支援することが多かったが、復興期に入ると、村の復興計画を作る作業がメインになった。

 「山古志村には14の集落があり、それぞれが復興プランを作り、村を立て直していきました。自分たちの村は自分たちでまた作っていくという機運が高まっていました」

 30代になった竹内さんは私生活も変化する。2010年に結婚し、その後2人の子どもを出産。子育てをしながら竹内さんは地域復興支援員の仕事を続けた。

復興を目指すも成果が出ず、徒労感……

 復興の実行部隊となった「山古志住民会議」は、2007年に地震や市町村合併を契機に、住民自らが村の将来像を描き、実現していくために発足した住民団体だ。結成当時は旧山古志村役場の復興支援室が事務局となっており、復興支援室の解散後は地域復興支援員が事務局を務めることになった。

 「当時は私を含めて5人の支援員が事務局を務め、代表は山古志村の村民の方が務めていました。メンバーは14集落の組長さんや子育てサークルなどの村民団体の代表などで、総勢40~50人のグループです」

 自分たちの村の未来は、自分たちで描いていく。山古志全体で何を目指すのかを明確にするため、住民会議が中心となり「山古志夢プラン」の作成が始まった。
 ここで、新しいビジョンとして「つなごう山古志の心」というキャッチフレーズが生まれた。
 
 村民たちと一緒に新しい山古志を目指し活動が始まったが、5年ほど全力で頑張り続けても、思うような効果が見えてこない。2018年、人口は1000人を切ろうとしていた。次第に村民の間には疲れが見え始めてくる。

 「この村を存続させるために本当に1人1人が全力を出して頑張ったんです。でも、その間に人口が増えたかというとそうではない。これだけやってもこんなに人が減るんだ……と少しずつ徒労感のようなものが生まれていきました。山古志のためになると思ってありとあらゆることに取り組んでいたので、イベント疲れのようなものもありました」

 ここで、住民会議でも一度、プランの方向性を改めて見つめ直すことになった。

 「そのときはみんなで一緒に走ってきた動きが、一度止まってしまった感覚がありました。それでも、これまでのトライアンドエラーによって出会った人たちや、経験したたくさんの失敗、達成感はやっぱり財産だよね、という話になったんです。

 そこから発想を少し転換して、たとえ人口が減っても、山古志から離れて暮らす人たちが同じように山古志のスピリットに共感してくださることは本当に財産だから、そんな人の財産を大事にしていきたい。今後はより山古志に共感してくださる方々を増やしていきたいというふうに目指す方向性が変わっていきました。

 例えば、学生ボランティアで村のおばあちゃんの家屋の片づけをしたのがきっかけで、毎年必ず子どもを連れておばあちゃんに会いに来てくれる人がいます。人口としての数字には表れないけれど、そういう目に見えないつながりを何とか可視化して『あなたたちも山古志をつないでくださった大事な1人なんだよ』ということをメッセージできるような村になりたいねという話が、『仮想山古志村プロジェクト』につながっていきました」

「もう仲間じゃん」、よそものだけど住民会議の代表に

 仮想空間でリアル村民と山古志に共感する人々がつながれる、新しい山古志村を作ろう! それが「仮想山古志村プロジェクト」の原点だ。

 当時流行していたゲーム「あつまれどうぶつの森」からもヒントを得ながら、仮想空間に新しい山古志村をつくる構想を深めていった。

 「メタバース空間で作るのが最もイメージしやすかったのですが、企業に見積もりを依頼したら、2000万円かかります、と。はぁ……見積もりありがとうございました!ごめんなさい、また来ます!みたいな感じでしたね(笑)」

 予算と実現性の壁にぶつかりながらも、竹内さんたちは情報収集を続けた。突破口となったのは、2021年の総務省の過疎地域に特化した補助金だった。竹内さんは思いをすべて申請書に詰め込み、仮想山古志村プロジェクトは予算を得ることができた。

 ここで竹内さんは地域起こしのイベントを通じで知り合った、林篤志さん(Next Commons Labファウンダー)に相談して、具体的にプロジェクトが動き始めた。
 林さんから出てきたアイデアが「NFT(非代替性トークン)」。当時、竹内さんはNFTという言葉は、耳にしたことがある程度で、ほとんど知識はなかったという。

 「え?何? ブロックチェーン? という感じでした。でも、ためらいはまったくなくて、とにかくチャレンジしてみたいという思いでした」

 林さんとIT企業TARTの代表・高瀬俊明さんと3人で情報を持ち寄り、山古志村からNFTを発行するアイデアを煮詰めていった。
 しかし、そのタイミングで復興支援員の制度が21年3月末で終了することが決まってしまう。支援制度が始まった当初は5人いた支援員は、そのとき竹内さんを含めて2人になっていた。

 「もう1人の同僚はこのタイミングで山古志から離れ、山を下りることを決めました。でも、私は仮想山古志村プロジェクトが動き出している最中でしたし、まだ何もやり遂げられていない。ある程度達成感を持って、村民の方に恩返しができたと思えるまでは、絶対に山を下りたくないと思いました」

 竹内さんは山古志村に残りたいという気持ちを訴え、事務職員として残ることになった。ここで問題になったのが、住民会議の代表を誰が務めるかということだった。2代目の代表が他界し、下山すると決めた竹内さんの同僚が代表代行の形で任務に当たっていた。新たな代表が必要だった。

 会議の場で運営メンバーの何人かから、「竹内が3代目の代表がいいんじゃないか」という声が上がった。

 「ええっ、私でいいんですか?とそのときは驚きました。村民の誰かしらが代表に立つだろうと思っていたんです。1代目、2代目ともに山古志村の村民でした。私は村民じゃないのにいいのだろうか、という思いがありました」

 そんな竹内さんに対して、運営メンバーは言った。
 「もう仲間じゃん。あなたがいまやろうとしている仮想山古志村プロジェクトは、村民も村民じゃない人も対等に山古志のために取り組んでいて、山古志を存続させるためにやっていることでしょう」

 まったくその通りだった。
 「ありがたく引き受けさせていただきます」
 こうして、竹内さんは3代目の山古志住民会議の代表に就任した。仮想山古志村プロジェクトもいよいよ本格的に動き始めることになる。

(文・尾越まり恵)
プロフィール
竹内春華さん
山古志住民会議 代表

1980年新潟県魚沼市旧広神村生まれ。京都の佛教大学で教職課程を取得。卒業後は地元に戻り塾講師として働く。2007年から山古志村災害ボランティアセンターの生活支援相談員として働く。その後、地域復興支援員となりずっと山古志村の復興に携わってきた。2021年に山古志住民会議の代表に就任。夫の実家である和島から山古志までの距離を毎日通っている。アニメが好き。

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