24歳のとき、絵を描いて生きていくため、漫画雑誌の新人賞に応募することを決めました。漫画家としてはかなり遅いスタートでした。
幼少期から絵を描くのが好きで、外で活発に遊ぶよりは、家の中で黙々と何かを作ったり編み物をしたりするのが好きな子どもでした。
小学3年生のときに描いた絵が学校内の賞で入賞し、廊下に貼り出されたのが、絵で評価された最初の記憶です。でも、当時はまだ「子どもは外で遊ぶべき」という風潮があった時代。絵を描いてクラスで人気者になりかけたときも、先生に「絵を描くよりも外で遊ぼう!」と言われ、がっかりしたことを覚えています。
一人親として私と1歳上の兄を養うために母が働いていたので、平日の放課後や夏休みなどは伯母の家で過ごしていました。犬の散歩の途中でコインランドリーに読み捨ててあった『少年ジャンプ』や『少年チャンピオン』などを読んでいました。最初に自分で買って読んだのは、『コロコロコミック』で、そこから少女漫画の『りぼん』や『なかよし』も読むようになりました。
中学生になると『花とゆめ』も購読。柴田昌弘先生が大好きで、お小遣いで絵の具やカラーインクを買って、先生の作品の模写をしていました。
ただ、家で絵を描いていると母や兄から「恥ずかしい」と言われてしまう。はつらつとした子ども像を求める母にとって、絵を描く私は異質な存在だったのです。
「将来、絵を描く仕事に就きたいな」という思いが頭をよぎったこともありましたが、母には「美大は裕福な人が行くところだから」「そんな仕事では食べて行けないから」と言われました。絵を描いて生きていく選択肢があることを教えてくれる大人は、当時私のまわりには1人もいませんでした。
海外のアーティストにインタビューをするような仕事に就きたいと考え、高校時代は英語を頑張って勉強しました。家庭の経済事情を考えると、国立大学に進むしかありません。ところが、1歳上の兄が浪人することになり、母から「お兄ちゃんの予備校代が必要だから、大学は諦めてほしい」と言われてしまいます。父から教育費は預かっていると聞いていましたが、そのお金も兄のために使ってしまったとのこと。すでに高校時代から奨学金を受給していたので、これ以上借金を重ねることもためらわれ、何とか頭を下げて短大進学ならばと許してもらい、東京の学習院女子短期大学に進学しました。
進学を機に家を出て、私は自由になりました。大学では軽音楽部に入部し、ロックバンドでギターを担当。はじめて、「自分の好きなことを好きなようにできた」という実感がありました。
音楽雑誌の出版社は四年制大学卒の学生しか採用しておらず、希望の就職先に就くことは難しかった。お金がないために実家に戻る事態になることは絶対に避けたいと考え、奨学金の返済のためにもできるだけ給料の高い会社で働こうと、大手製薬会社に就職しました。
その後、転職を考え始めたときに、東京には絵を描いて暮らしている人がいることに気付いたんです。でも、会社を辞めて無職になるのも怖いし、イラストレーターになる方法もわからない。数年、1人で悩んでいました。
「そうだ、漫画を描いてみよう」
そう思い立ち、漫画の描き方のノウハウ本を1冊買って、24歳ではじめて漫画を描きました。16ページの恋愛ものの短編です。当時集英社から出ていた『ぶ~け』の新人漫画家の月例賞に応募したところ、1回目でいちばん小さな賞をもらいました。賞金は2万円、批評シートにみっちりと編集者からの赤字のアドバイスとともに、新しい原稿用紙やプロ漫画家の複製原画までもらえたんです。習い事だとお金を払わなければならないのに、無料で、うまくいけば賞金ももらえて、丁寧に指導してくれる。驚きました。
「とにかく1年間挑戦してみよう」と期限を決め、仕事が終わり帰宅した後、深夜まで描き、毎月応募を続けました。6作ほど応募したタイミングで月例賞を受賞して担当編集者がつき、1995年に『ぶ~けデラックス』で漫画家デビューを果たしました。25歳のときのことです。
ところが、担当の編集者がすくに異動になり新しい担当者に代わった途端、ネームがボツになり続け、そこから2年間、掲載は叶いませんでした。
――そもそも一度掲載してもらえたことが奇跡だったのだ。2年間ネームを描き続けても掲載に至らないのであれば、もう漫画家としては無理かもしれない。
諦めかけていたところに、以前新人賞に応募して賞を受賞していた、祥伝社の『FEEL YOUNG(フィールヤング)』の編集者さんから電話がかかってきました。
「いま、何していますか?」
状況を伝えると、「じゃあ、ボツになったネームを見せてよ」と言ってくださった。
いまでも鮮明に覚えていますが、当時新宿にあった「談話室滝沢」という喫茶店で編集者さんと会いました。これまで描いたネームをすべて見てもらった中で、「これ、載せるから描いてみてよ」と言ってもらえたものが1つだけありました。
嬉しくて一生懸命描き上げ、持って行きました。しかし、「ネームは良かったんだけど、絵が……」と、商業作家として載せるにはこの絵では厳しいとの判断。新人賞のデビューという形で載せさせてほしいと言われ、結果的にこれが2度目の漫画家デビューとなりました。 そうして1998年、再デビューを機に会社を退職し、漫画に専念することにしました。
締め切り前はみんな寝ていないので、まさに戦場です。ただ、厳しい中でもアシスタントチームはみんな仲が良く、いきなり『マジンガーZ』の音楽をかけて「運動してないからみんなで行進しよう!」と行進を始めたり、恵比寿で鬼ごっこをしたりしたこともありました(笑)。
アシスタント時代の2年がなければ、途中で漫画家を続けることを諦めていたかもしれません。漫画家として成功するためには、メジャーな雑誌に掲載されることが重要だという価値観もある中で、安野先生だけは、「どんな小さな仕事であっても必ず得るものがあるから受けたほうがいいよ」と言ってくださった。
それで、医療系の広告漫画などジャンルを問わず描いていく中で、短期連載の仕事をいただき、アシスタントを卒業。少しずつ自分の描きたい漫画にチャレンジして、2005年についに憧れだった青年誌での掲載が叶いました。『ヤングガンガン』という隔週連載誌での連載、とても嬉しかったです。
しかし、ちょうどそのタイミングでアシスタント時代に知り合い結婚した夫との間に、2人目の子どもをを妊娠。せっかく厳しいコンペを勝ち抜き、手にした連載だったので、ほとんど休まず描き続けました。出産、子育てと漫画連載を両立させる日々は、かなり過酷でした。
青年誌での連載が打ち切りになったためストーリー漫画は一時諦め、子育て漫画などを描いていましたが、2011年から『月刊コミックゼノン』(コアミックス)で連載枠をいただき、グルメ漫画『おとりよせ王子 飯田好実』の連載がスタート。結果、7巻で販売部数70万部の作品となり、そこからいろいろな依頼をいただけるようになりました。
『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の編集者さんに相談して、『二月の勝者-絶対合格の教室』の構想を深めていきました。1年間、ひたすら取材してネームを描いて打ち合わせをしての繰り返しです。
職業漫画としての舞台である中学受験塾を通して、現代の教育における問題点を俯瞰して描きたいと考えました。そのため、漫画の中では中学受験の物語と並行して、家庭の経済事情などにより有料塾に通えない子どもたちが通うボランティアの無料塾についても組み込んでいくことを構想時から決めていました。
過熱化していく中学受験。「子どもに受験をさせないと、子育てをさぼっているのではないか」と追い込まれてしまう母親もいる。そもそも受験に向いていない子どもまでもが受験をさせられている現状がある。なぎなたやかるたをテーマにして大ヒットしている漫画がある以上、中学受験も必ずテーマになり得る、と思いました。中学受験をマイナースポーツの一種としてとらえ、青年誌に合うように意識して、内容を詰めていきました。
連載コンペを通過し、2018年1月から『二月の勝者‐絶対合格の教室‐』の連載がスタート。連載を始めた当初は7年もの長期連載を続けられるとは思っていませんでした。2021年にはテレビドラマ化の機会もいただきました。
想像を超える反響には、驚くことも多かったですね。基本的に大人向けに描いていたものでしたが、親が子どもに勉強に対するやる気を出させるために読ませるといった現象が起きていると知ったときは、子どもをコントロールするために使用される事実にショックを受けました。
しかし、それならばと、読者である子どもを励ますようなエピソードも盛り込めるような作品作りを心がけるようになりました。読者の方に育てていただいた部分も多かったと感じています。
7年間にわたる連載期間には、母を看取ったり子育てに悩んだり義母の介護が始まったりと、プライベートでも大変なことが多かったのと同時に、自分自身の過去と向き合い、傷口を開きながら描くという苦しい時間でもありました。そんな中で、2024年5月に無事に最終回を迎えられたのはとても幸せなことだと思っています。
幼少期から自分の好きなことを否定され続け、家庭の事情で短大にしか行けなかったことはずっと私の心の中に消えない澱(おり)として残っていました。兄との間に男女差をつけられたこと、経済格差によって教育の機会を奪われたこと、私を取り巻く近親者がそうせざるを得ない状況に追い込んだ、見えない「何か」がずっと許せなかった。だからこそ、教育問題をテーマにした漫画も描きました。
でも、その「何か」に対して恨みを抱えて生きていきたくない。そう決意し、2024年4月から大学に通い始めました。主に臨床心理学、保健福祉学、医工人間学などを学んでおり、この先の卒業研究テーマを模索している最中です。
もちろん、大学での学びを今後の漫画に生かしたいという思いもあります。
長期連載が終わり、少し休みたいなとも思いましたが、それ以上に「描きたい!」という思いがどんどん湧き上がってきて、いま次回作のプロットを描いているところです。
人には役割があり、私ができるのは漫画を描き続けること。いまを生きる若い人たちに、「もっと自由に生きていいんだよ」と伝えられるような漫画を、この先も描き続けていきたいと思います。
(文/尾越まり恵、写真/齋藤海月)
幼少期から絵を描くのが好きで、外で活発に遊ぶよりは、家の中で黙々と何かを作ったり編み物をしたりするのが好きな子どもでした。
小学3年生のときに描いた絵が学校内の賞で入賞し、廊下に貼り出されたのが、絵で評価された最初の記憶です。でも、当時はまだ「子どもは外で遊ぶべき」という風潮があった時代。絵を描いてクラスで人気者になりかけたときも、先生に「絵を描くよりも外で遊ぼう!」と言われ、がっかりしたことを覚えています。
一人親として私と1歳上の兄を養うために母が働いていたので、平日の放課後や夏休みなどは伯母の家で過ごしていました。犬の散歩の途中でコインランドリーに読み捨ててあった『少年ジャンプ』や『少年チャンピオン』などを読んでいました。最初に自分で買って読んだのは、『コロコロコミック』で、そこから少女漫画の『りぼん』や『なかよし』も読むようになりました。
中学生になると『花とゆめ』も購読。柴田昌弘先生が大好きで、お小遣いで絵の具やカラーインクを買って、先生の作品の模写をしていました。
ただ、家で絵を描いていると母や兄から「恥ずかしい」と言われてしまう。はつらつとした子ども像を求める母にとって、絵を描く私は異質な存在だったのです。
「将来、絵を描く仕事に就きたいな」という思いが頭をよぎったこともありましたが、母には「美大は裕福な人が行くところだから」「そんな仕事では食べて行けないから」と言われました。絵を描いて生きていく選択肢があることを教えてくれる大人は、当時私のまわりには1人もいませんでした。
経済的な事情で大学進学をあきらめた
漫画を読んだり絵を描いたりすることは続けながら、中学3年生からは洋楽を聞くようになりました。当時イギリスのロックバンドのデュランデュランやカルチャークラブが人気で、私はオーストラリアのINXS(インエクセス)が好きでした。家族に「変な音楽を聴き出した」とイヤな顔をされていたので、深夜に隠れてMTVを見ていました。苦しかった10代、私を支えてくれたのが音楽だったのです。海外のアーティストにインタビューをするような仕事に就きたいと考え、高校時代は英語を頑張って勉強しました。家庭の経済事情を考えると、国立大学に進むしかありません。ところが、1歳上の兄が浪人することになり、母から「お兄ちゃんの予備校代が必要だから、大学は諦めてほしい」と言われてしまいます。父から教育費は預かっていると聞いていましたが、そのお金も兄のために使ってしまったとのこと。すでに高校時代から奨学金を受給していたので、これ以上借金を重ねることもためらわれ、何とか頭を下げて短大進学ならばと許してもらい、東京の学習院女子短期大学に進学しました。
進学を機に家を出て、私は自由になりました。大学では軽音楽部に入部し、ロックバンドでギターを担当。はじめて、「自分の好きなことを好きなようにできた」という実感がありました。
音楽雑誌の出版社は四年制大学卒の学生しか採用しておらず、希望の就職先に就くことは難しかった。お金がないために実家に戻る事態になることは絶対に避けたいと考え、奨学金の返済のためにもできるだけ給料の高い会社で働こうと、大手製薬会社に就職しました。
25歳でデビューしたものの、ネームがボツになり続け……
製薬会社で働いていた21歳のときにアトピー性皮膚炎が悪化し1カ月間入院。病院のベッドの中で桜沢エリカ先生や岡崎京子先生の漫画をひたすら読んでいました。その後、転職を考え始めたときに、東京には絵を描いて暮らしている人がいることに気付いたんです。でも、会社を辞めて無職になるのも怖いし、イラストレーターになる方法もわからない。数年、1人で悩んでいました。
「そうだ、漫画を描いてみよう」
そう思い立ち、漫画の描き方のノウハウ本を1冊買って、24歳ではじめて漫画を描きました。16ページの恋愛ものの短編です。当時集英社から出ていた『ぶ~け』の新人漫画家の月例賞に応募したところ、1回目でいちばん小さな賞をもらいました。賞金は2万円、批評シートにみっちりと編集者からの赤字のアドバイスとともに、新しい原稿用紙やプロ漫画家の複製原画までもらえたんです。習い事だとお金を払わなければならないのに、無料で、うまくいけば賞金ももらえて、丁寧に指導してくれる。驚きました。
「とにかく1年間挑戦してみよう」と期限を決め、仕事が終わり帰宅した後、深夜まで描き、毎月応募を続けました。6作ほど応募したタイミングで月例賞を受賞して担当編集者がつき、1995年に『ぶ~けデラックス』で漫画家デビューを果たしました。25歳のときのことです。
ところが、担当の編集者がすくに異動になり新しい担当者に代わった途端、ネームがボツになり続け、そこから2年間、掲載は叶いませんでした。
――そもそも一度掲載してもらえたことが奇跡だったのだ。2年間ネームを描き続けても掲載に至らないのであれば、もう漫画家としては無理かもしれない。
諦めかけていたところに、以前新人賞に応募して賞を受賞していた、祥伝社の『FEEL YOUNG(フィールヤング)』の編集者さんから電話がかかってきました。
「いま、何していますか?」
状況を伝えると、「じゃあ、ボツになったネームを見せてよ」と言ってくださった。
いまでも鮮明に覚えていますが、当時新宿にあった「談話室滝沢」という喫茶店で編集者さんと会いました。これまで描いたネームをすべて見てもらった中で、「これ、載せるから描いてみてよ」と言ってもらえたものが1つだけありました。
嬉しくて一生懸命描き上げ、持って行きました。しかし、「ネームは良かったんだけど、絵が……」と、商業作家として載せるにはこの絵では厳しいとの判断。新人賞のデビューという形で載せさせてほしいと言われ、結果的にこれが2度目の漫画家デビューとなりました。 そうして1998年、再デビューを機に会社を退職し、漫画に専念することにしました。
売れっ子漫画家、安野モヨコ先生のアシスタントに
『FEEL YOUNG』の担当者から「アシスタントの仕事をしてみないか」と声をかけてもらい、安野モヨコ先生の元でお仕事させていただくことになりました。ちょうど『ハッピーマニア』の連載中で、私は5巻くらいから参加しました。ここではじめてパースを取り、背景を描く方法を学びました。締め切り前はみんな寝ていないので、まさに戦場です。ただ、厳しい中でもアシスタントチームはみんな仲が良く、いきなり『マジンガーZ』の音楽をかけて「運動してないからみんなで行進しよう!」と行進を始めたり、恵比寿で鬼ごっこをしたりしたこともありました(笑)。
アシスタント時代の2年がなければ、途中で漫画家を続けることを諦めていたかもしれません。漫画家として成功するためには、メジャーな雑誌に掲載されることが重要だという価値観もある中で、安野先生だけは、「どんな小さな仕事であっても必ず得るものがあるから受けたほうがいいよ」と言ってくださった。
それで、医療系の広告漫画などジャンルを問わず描いていく中で、短期連載の仕事をいただき、アシスタントを卒業。少しずつ自分の描きたい漫画にチャレンジして、2005年についに憧れだった青年誌での掲載が叶いました。『ヤングガンガン』という隔週連載誌での連載、とても嬉しかったです。
しかし、ちょうどそのタイミングでアシスタント時代に知り合い結婚した夫との間に、2人目の子どもをを妊娠。せっかく厳しいコンペを勝ち抜き、手にした連載だったので、ほとんど休まず描き続けました。出産、子育てと漫画連載を両立させる日々は、かなり過酷でした。
青年誌での連載が打ち切りになったためストーリー漫画は一時諦め、子育て漫画などを描いていましたが、2011年から『月刊コミックゼノン』(コアミックス)で連載枠をいただき、グルメ漫画『おとりよせ王子 飯田好実』の連載がスタート。結果、7巻で販売部数70万部の作品となり、そこからいろいろな依頼をいただけるようになりました。
『二月の勝者』で表現したかった中学受験のリアル
2016年頃、働く女性向けのWebメディア「日経DUAL」で『中学受験をしようかなと思ったら読む漫画』(原作:小林延江)を連載している際に、「そういえば、中学受験を扱った漫画って一般誌の漫画では存在しないな」と思ったんです。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の編集者さんに相談して、『二月の勝者-絶対合格の教室』の構想を深めていきました。1年間、ひたすら取材してネームを描いて打ち合わせをしての繰り返しです。
職業漫画としての舞台である中学受験塾を通して、現代の教育における問題点を俯瞰して描きたいと考えました。そのため、漫画の中では中学受験の物語と並行して、家庭の経済事情などにより有料塾に通えない子どもたちが通うボランティアの無料塾についても組み込んでいくことを構想時から決めていました。
過熱化していく中学受験。「子どもに受験をさせないと、子育てをさぼっているのではないか」と追い込まれてしまう母親もいる。そもそも受験に向いていない子どもまでもが受験をさせられている現状がある。なぎなたやかるたをテーマにして大ヒットしている漫画がある以上、中学受験も必ずテーマになり得る、と思いました。中学受験をマイナースポーツの一種としてとらえ、青年誌に合うように意識して、内容を詰めていきました。
連載コンペを通過し、2018年1月から『二月の勝者‐絶対合格の教室‐』の連載がスタート。連載を始めた当初は7年もの長期連載を続けられるとは思っていませんでした。2021年にはテレビドラマ化の機会もいただきました。
想像を超える反響には、驚くことも多かったですね。基本的に大人向けに描いていたものでしたが、親が子どもに勉強に対するやる気を出させるために読ませるといった現象が起きていると知ったときは、子どもをコントロールするために使用される事実にショックを受けました。
しかし、それならばと、読者である子どもを励ますようなエピソードも盛り込めるような作品作りを心がけるようになりました。読者の方に育てていただいた部分も多かったと感じています。
7年間にわたる連載期間には、母を看取ったり子育てに悩んだり義母の介護が始まったりと、プライベートでも大変なことが多かったのと同時に、自分自身の過去と向き合い、傷口を開きながら描くという苦しい時間でもありました。そんな中で、2024年5月に無事に最終回を迎えられたのはとても幸せなことだと思っています。
大学に行けなかった、過去の恨みとの決別
漫画家になるという決断に加えて、実はもう1つ、私は今年、「大学に通う」というとても重大な決断をしました。50歳をすぎての大きな挑戦です。幼少期から自分の好きなことを否定され続け、家庭の事情で短大にしか行けなかったことはずっと私の心の中に消えない澱(おり)として残っていました。兄との間に男女差をつけられたこと、経済格差によって教育の機会を奪われたこと、私を取り巻く近親者がそうせざるを得ない状況に追い込んだ、見えない「何か」がずっと許せなかった。だからこそ、教育問題をテーマにした漫画も描きました。
でも、その「何か」に対して恨みを抱えて生きていきたくない。そう決意し、2024年4月から大学に通い始めました。主に臨床心理学、保健福祉学、医工人間学などを学んでおり、この先の卒業研究テーマを模索している最中です。
もちろん、大学での学びを今後の漫画に生かしたいという思いもあります。
長期連載が終わり、少し休みたいなとも思いましたが、それ以上に「描きたい!」という思いがどんどん湧き上がってきて、いま次回作のプロットを描いているところです。
人には役割があり、私ができるのは漫画を描き続けること。いまを生きる若い人たちに、「もっと自由に生きていいんだよ」と伝えられるような漫画を、この先も描き続けていきたいと思います。
(文/尾越まり恵、写真/齋藤海月)
高瀬志帆(たかせ・しほ)
漫画家
1970年、山梨県甲府市生まれ。学習院女子短期大学を卒業後、製薬会社に就職。在籍中に漫画を描き始め、1995年『ぶ~けデラックス』(集英社)にて漫画家デビュー。安野モヨコ氏のアシスタントを経て、2010年『月刊コミックゼノン』(徳間書店)の『おとりよせ王子 飯田好実』がヒット。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて2018年1月から『二月の勝者‐絶対合格の教室‐』を連載、380万部超。本作で第67回小学館漫画賞を受賞。2024年5月に完結。
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