
1987年、30歳のときに中国から日本に移住し、日本で芸人として生きていくことを決めました。
中国の北京で、武術や雑技の芸人として活動する両親のもとに生まれ、5歳から父に京劇と雑技を教わりました。京劇は、唄(うた)、故(しぐさ)、念(せりふ)、打(たちまわり)の4要素から構成される、中国の伝統的な総合芸術です。
私にとって父の背中は大きく、憧れの存在でした。学校が終わると、校門の外で父が待っていて、父の自転車の後ろに乗って公園へ。そこから夜暗くなるまで練習です。父の指導は厳しかったけれど、辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。
芝居が好きだったので、演技ができて衣装も華やかな京劇の世界で生きていきたいと考え、19歳で北京京劇団に入団しました。雑技がメインだった父は、私にも雑技の道に進んでほしかったのだと思います。しかし、京劇を選んだ私に、父は「自分の選んだ道だから、将来後悔しないように頑張れ」と言って背中を押してくれました。その言葉をいまでも忘れたことはありません。
北京京劇団での初舞台は「水滸伝(すいこでん)」でした。私は素手で人食いトラを退治した武松(ぶしょう)の役だったのですが、緊張と恐怖で舞台袖で固まってしまい、先生に背中を押されて舞台に上がりました。これが、芸人としての一歩を踏み出した瞬間でした。
そこから10年、ギリシャやトルコなど海外でも京劇を披露する機会に恵まれ、多くの尊敬できる先生と出会い、さまざまな演目を勉強させてもらいました。
1982年、日中国交正常化10周年のタイミングにはじめて日本を訪れました。経済成長を遂げた日本を見て「アジアにこんなに発展した国があるのか!」と驚き、大きなエネルギーを感じました。そこで日本のことが好きになったのです。
社会主義国家である中国では、劇団は国営です。演目もすべて国の指示によって決めなければなりません。資本主義国家で、自由に芸人として活動してみたい。そう考え、30歳で日本に行くことを決断しました。知らない国で暮らすことに、不安はありませんでした。兄が先に日本で活動していたこともありますが、自分には子どもの頃から培ってきた芸がある。芸さえできれば、どこででも生きていけるという自信があったのです。
最初に住んだのは新宿区の百人町でした。日本語学校で日本語を勉強しながら、飲食店の皿洗いのアルバイトも経験しました。子どもの頃から芸一筋だった私にとって、人生初のアルバイトはとても楽しかったですね。
その後、知人の紹介で狂言師の野村万之丞さんと出会い、1992年には国立能楽堂で狂言の舞台に参加しました。その後も、野村さんとは「古いものを守りながら新しい演目を作りたい」という思いが一致し、狂言に京劇を取り入れたオリジナル狂言など、既存の枠にとらわれない演目を一緒に手掛けていきました。
そして2022年、日本で中国芸術雑技団を立ち上げていた兄が他界。「劇団の名前を残してほしい」という兄の最期の願いを聞き、私が中国芸術雑技団の団長になりました。
中国芸術雑技団は、2026年3月13日に劇団初となる自主公演「来・来・来!2026」を行います。5歳から学んできたすべてを、この舞台に注ぎ込むつもりです。見どころは、中国の雑技と日本の和太鼓とのコラボレーションです。迫力ある和太鼓の演奏と雑技の融合を楽しんでもらいたいと思います。
日本に来て40年が経ち、私は70歳になりました。初の自主公演を控え「ようやくここまできたな」と思うのと同時に、さらにいろいろなことに挑戦したいという意欲も増しています。日本の伝統芸能には独特の魅力があります。中国の芸能とコラボすることで、もっともっと新しいものを作っていけると思います。
(構成/尾越まり恵)
中国の北京で、武術や雑技の芸人として活動する両親のもとに生まれ、5歳から父に京劇と雑技を教わりました。京劇は、唄(うた)、故(しぐさ)、念(せりふ)、打(たちまわり)の4要素から構成される、中国の伝統的な総合芸術です。
私にとって父の背中は大きく、憧れの存在でした。学校が終わると、校門の外で父が待っていて、父の自転車の後ろに乗って公園へ。そこから夜暗くなるまで練習です。父の指導は厳しかったけれど、辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。
芝居が好きだったので、演技ができて衣装も華やかな京劇の世界で生きていきたいと考え、19歳で北京京劇団に入団しました。雑技がメインだった父は、私にも雑技の道に進んでほしかったのだと思います。しかし、京劇を選んだ私に、父は「自分の選んだ道だから、将来後悔しないように頑張れ」と言って背中を押してくれました。その言葉をいまでも忘れたことはありません。
北京京劇団での初舞台は「水滸伝(すいこでん)」でした。私は素手で人食いトラを退治した武松(ぶしょう)の役だったのですが、緊張と恐怖で舞台袖で固まってしまい、先生に背中を押されて舞台に上がりました。これが、芸人としての一歩を踏み出した瞬間でした。
そこから10年、ギリシャやトルコなど海外でも京劇を披露する機会に恵まれ、多くの尊敬できる先生と出会い、さまざまな演目を勉強させてもらいました。
1982年、日中国交正常化10周年のタイミングにはじめて日本を訪れました。経済成長を遂げた日本を見て「アジアにこんなに発展した国があるのか!」と驚き、大きなエネルギーを感じました。そこで日本のことが好きになったのです。
社会主義国家である中国では、劇団は国営です。演目もすべて国の指示によって決めなければなりません。資本主義国家で、自由に芸人として活動してみたい。そう考え、30歳で日本に行くことを決断しました。知らない国で暮らすことに、不安はありませんでした。兄が先に日本で活動していたこともありますが、自分には子どもの頃から培ってきた芸がある。芸さえできれば、どこででも生きていけるという自信があったのです。
最初に住んだのは新宿区の百人町でした。日本語学校で日本語を勉強しながら、飲食店の皿洗いのアルバイトも経験しました。子どもの頃から芸一筋だった私にとって、人生初のアルバイトはとても楽しかったですね。
その後、知人の紹介で狂言師の野村万之丞さんと出会い、1992年には国立能楽堂で狂言の舞台に参加しました。その後も、野村さんとは「古いものを守りながら新しい演目を作りたい」という思いが一致し、狂言に京劇を取り入れたオリジナル狂言など、既存の枠にとらわれない演目を一緒に手掛けていきました。
そして2022年、日本で中国芸術雑技団を立ち上げていた兄が他界。「劇団の名前を残してほしい」という兄の最期の願いを聞き、私が中国芸術雑技団の団長になりました。
中国芸術雑技団は、2026年3月13日に劇団初となる自主公演「来・来・来!2026」を行います。5歳から学んできたすべてを、この舞台に注ぎ込むつもりです。見どころは、中国の雑技と日本の和太鼓とのコラボレーションです。迫力ある和太鼓の演奏と雑技の融合を楽しんでもらいたいと思います。
日本に来て40年が経ち、私は70歳になりました。初の自主公演を控え「ようやくここまできたな」と思うのと同時に、さらにいろいろなことに挑戦したいという意欲も増しています。日本の伝統芸能には独特の魅力があります。中国の芸能とコラボすることで、もっともっと新しいものを作っていけると思います。
(構成/尾越まり恵)
来・来・来!2026
日時:2026年3月13日(金)18:30~
開場:調布市グリーンホール
公式ホームページ







