成田裕一

わたしの決断は、ITの仕事を現役で続けながら、地元・北海道にITで貢献するという夢を持って転職したことです。

航空整備士への憧れがあり工業大学を受験したものの失敗。予備校に通っている頃にプログラミングという仕事があることを知りました。「難しくなさそう」と感じてアルバイトを始めてみると、1カ月で50万円も稼げて驚きました。そこで整備士の夢を諦め、コンピュータ専門学校に入学。もともと数学が得意だったこともあり、プログラミング言語を本格的に学び、数値計算のプログラム開発に携わりました。

その後、NECや日立に入りたいと思い就職活動をしましたが失敗。それでも社員数1000人規模の大手SI企業に就職し、10年間ほど勤務しました。ところがバブル崩壊の影響で人員削減となり、大手ハウスメーカーの情報通信子会社へ転職。プログラミング開発から運用、コールセンターまでを担う会社で新規事業部の責任者を務めました。ITのサービスを外販していく事業を拡大させることに注力するうちに、気が付けば56歳になっていたわたし。「そろそろ現場は若手に譲って後進を育ててほしい」と言われましたが「まだまだ現役を退くつもりはありません」と固辞。「君たちの技術もすごいけど、まだまだ自分も負けないつもりです。これからもお互いにがんばっていこうね!」とメッセージを残して退職し、これからの人生をデジタル・インフォメーション・テクノロジー(DIT)で頑張ろうと決意。変化を味わいたい、と感じていたのです。

住宅系の仕事が得意だったわたしは、大手住宅会社のシステム部門責任者の席を用意する、という話もいただいていましたが、当時勤務していた会社の協力会社だったDITの営業社員が非常に優秀で評判がよかったことを思い出し、生き生きと働くシニア営業社員に興味を惹かれて面接を受けました。

実はわたしにはもう一点心配ごとがありました。それは地元・北海道函館市に残してきた母のことです。DITではすでに愛媛の事業所で、若い頃は都市部で働き、年を重ねてから地元に戻るというビジネスモデルを確立しています。そのビジネスモデルを活用し、わたしの地元函館でITを活用した地方創生事業を立ち上げたいと、採用面接で力説しました。「夢を叶えるために70代以降も働いてほしい」と快諾されたことを受け、2019年に入社。DXビジネス研究室の初代室長に就任しました。

お客様のニーズに合ったビジネスモデルを組み立てていくDXビジネスを立ち上げ、さまざまな顧客を獲得。国内外の多様な人脈形成もできた2023年12月、AIとローコードの開発拠点である函館分室を立ち上げました。函館をITの街にしたいという思いから、函館市や公立はこだて未来大学の学生とも連携し、さまざまなフォーラムも開催。函館の地元企業とも協業し一緒に開発を進めていく、いわゆるニアショアも推進しました。5%しか残らないと言われている函館の若者たちを地元に引き留めるための活動に注力しています。地元に残りたいと思ってもらうためには子どもの頃から函館で働く魅力を伝えていく必要があると考え、現在では地元の教育委員会とも連携しながら教育体制を構築していく準備も進めています。

ITに携わって40年以上。まだまだこれからも現役でエンジニアを続けながら、新しい取り組みにも力を入れ、地元にも貢献していきたい。60代に入ったわたしの挑戦は、これからもまだまだ続いていきます。

(構成/岸のぞみ)

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