
18歳のとき、生まれ育ったスリランカから日本に来ることを決めました。
1969年、僕はセイロン(現スリランカ)で生まれました。ポルトガル、オランダの植民地を経て、イギリスからセイロンとして独立したのが1948年。その後、1972年に新憲法制定に伴い名前を変え、スリランカという国が誕生しました。日本では沖縄返還が行われた年です。
僕がはじめて日本に触れたのは、幼少期に見たテレビドラマ「おしん」でした。日本では1983年4月から1年間、NHKの連続テレビ小説として放送されたドラマです。日本がスリランカのテレビ局設立を支援したの経済援助をしたため、日本のドラマがスリランカで放送されていたのです。週に1回の放送を、近所の家族みんなで集まって見ていました。
小学校時代はまだ車が普及しておらず、乗り合い牛車で学校に通っていたのですが、あるときから一気に自動車が普及し始めます。よく見ると「Made in Japan(メイド・イン・ジャパン)」と書いてある。
「待てよ? 僕が知っている日本は『おしん』で、貧しい国のはず。日本は2つあるのだろうか?」
不思議に思い、地図を広げてもう1つ違う日本があるのではないかと確認してみたけれど、日本という国は1つだけでした。おしんは明治から昭和初期が舞台のドラマですが、僕はそれを現代の日本だと勘違いしていたんですね。
「あんなに貧しかった国が、こんな立派な車を作れる国に成長したのか!」と、僕にとって日本は憧れの国に変わりました。
高校生で進路を決めるタイミングが訪れたとき、スリランカでは紛争が起こっていました。内戦中は外資が流れなくなるため、当時スリランカで一番条件のいい職業は軍隊でした。新聞には、「お国のために頑張りませんか?」と呼びかける入隊募集の大きな広告が掲載され、他の職業よりも格段に良い条件が書かれていました。実際に、僕のまわりの先輩たちも、軍隊に入りました。しかし、彼らはそのまま紛争で命を落としてしまったのです。
「軍隊しか選択肢がないこの国にいたら、自分も死ぬかもしれない」と思いました。同時に、「もっと他に、幸せな生き方があるのではないか。それはきっと、スリランカの外にある」と思ったのです。高校の卒業試験の結果も待たず、僕は日本に行くことを決意しました。
本当に来るとは思っていなかったであろう青木さんは、かなりビックリした様子でした。しかも、僕の所持金が7万円と聞き、頭を抱えました。それでも親切な青木さんは「3カ月だけなら」と僕を受け入れてくれ、滋賀県の比叡山のふもとにある坂本という街で暮らすことになりました。しかも、青木さんは日本語学校の授業料も貸してくれたのです。
日本で働くために日本語を勉強しようと考え、日本語学校に行ったのですが、最初の月謝が3カ月分前払いで9万円。僕は自分の耳を疑いました。7万円は僕にとっては大金でしたが、そこではじめて国による物価の違いを知ったのでした。
運良く滋賀県の雄琴(おごと)温泉で布団敷きやお風呂掃除などのアルバイトをさせてもらえることになりました。勢いで日本に来たけれど、毎日布団を敷いて過ごしている。「この先どうなるのだろう……」と、先が見えない不安におしつぶされそうでした。スリランカに残ったほうがいい暮らしができたのではないか。そんな迷いを断ち切るため、スリランカから持ってきた写真や、家族や恋人からの手紙を全部燃やしました。そこで未練が立ち切れたのか、日本語を猛勉強して、1年で日本語能力検定1級を取得しました。
1990年に立命館大学に進学。新聞奨学生の制度に応募し、京都の嵐山で住み込みの新聞配達をしながら大学に通いました。
卒業と同時に、再び将来の選択に迫られます。日本で暮らした数年で得られたのは、日本語力だけでした。このままスリランカに帰っても、通訳の仕事くらいしかできません。もっと日本に残りたいと思いました。しかし、いまのようにまだ訪日外国人は多くなく、働ける場所も限られていました。
当時、グローバル化の波が押し寄せ、日本では「国際」という言葉がはやっていました。「世界まるごとHOWマッチ」というクイズ番組が人気を集めていた時代です。これはチャンスだと考えた僕は、「国際」と名のつく集まりに顔を出すようになりました。そうか「国際と名の付く組織に就職すればいいんだ」と考え、応募してみることに。ところが、そんな僕にことごとく「国際条項」という大きな壁が立ちはだかりました。国際と名のつく組織でも、採用するのは国籍が日本にある人だけだったのです。
国際交流の場に行けば、「外国人」としてちやほやしてもらえるのに、この国で働くことはできない。「国際」とは、国と国をつなげることではないのだろうか――。「メイド・イン・ジャパン」が世界でもてはやされていた時代に、僕は日本社会が抱える閉鎖性も目の当たりにしたのでした。
これは僕だけの問題ではなく、当時日本で暮らす外国人の多くはバラック小屋などで貧しい生活を強いられていることも知りました。
「そうか、日本の国際化というのは、日本人による日本人のためのものなんだ。どれだけの人が、本気で外国や外国人を知ろうと思っているのだろう」
僕は、本気で日本に裏切られたと思いました。就職が決まらず途方に暮れていたとき、友人から「大学院に行ったら?」と勧められ、消去法で大学院に進むことを決めました。
プライベートでは、日本人女性と結婚し、2人の子どもにも恵まれました。最初は妻の親に「国を捨てるようなヤツに娘はやれん」「黒い孫は困る」と猛反対されましたが、いまでは家族仲良しです。
妻が3人目の子どもを死産したことをきっかけに、得度を受け僧侶になりました。大学教授、僧侶、タレント、そして多様性の語り部として複数の活動をしています。
国籍だけでなく、性別、性的志向、障がいの有無など、人にはさまざまな違いが存在します。違いを知り、その違いをお互いが面白がり、寄り添うことでしか、一緒に生きていくことはできない。それが僕の考えです。違いを変えることはできないし、変える必要もない。住み分けることもせず、排除することもせず、違いを受け入れる。そうやってともに生きようとすることが、日本の未来を明るくすると僕は信じています。そのための橋渡しをするのが、僕の使命だと思っています。
だから、時には日本の現状について厳しい発言をすることもあります。でもそれは、日本に期待し、もっと良くなってほしいと思うからこそです。それくらい僕は日本に対して愛着があり、この国で必死で生きてきたという自負があります。日本が悪い方向に向かっていくのは嫌なんです。
日本に来て、もうすぐ40年になります。我ながら「よう頑張ったな」と思います。そして、たくさんのご縁によって、いまの僕があることに感謝しています。「おかげさま」の気持ちを忘れたことはありません。
「国際」に傷ついたという話をしましたが、僕は「民際」という言葉が好きなんです。国を背負う必要はありません。違いとどう向き合うかは、個人1人ひとりの問題です。「いろいろな違いを面白がり、民衆の際で花を咲かせてほしい」。そんな思いで、これからも僕は多様性の大切さを語り続けていきます。
(文/尾越まり恵、表記のない写真すべて/齋藤海月)
1969年、僕はセイロン(現スリランカ)で生まれました。ポルトガル、オランダの植民地を経て、イギリスからセイロンとして独立したのが1948年。その後、1972年に新憲法制定に伴い名前を変え、スリランカという国が誕生しました。日本では沖縄返還が行われた年です。
僕がはじめて日本に触れたのは、幼少期に見たテレビドラマ「おしん」でした。日本では1983年4月から1年間、NHKの連続テレビ小説として放送されたドラマです。日本がスリランカのテレビ局設立を支援したの経済援助をしたため、日本のドラマがスリランカで放送されていたのです。週に1回の放送を、近所の家族みんなで集まって見ていました。
小学校時代はまだ車が普及しておらず、乗り合い牛車で学校に通っていたのですが、あるときから一気に自動車が普及し始めます。よく見ると「Made in Japan(メイド・イン・ジャパン)」と書いてある。
「待てよ? 僕が知っている日本は『おしん』で、貧しい国のはず。日本は2つあるのだろうか?」
不思議に思い、地図を広げてもう1つ違う日本があるのではないかと確認してみたけれど、日本という国は1つだけでした。おしんは明治から昭和初期が舞台のドラマですが、僕はそれを現代の日本だと勘違いしていたんですね。
「あんなに貧しかった国が、こんな立派な車を作れる国に成長したのか!」と、僕にとって日本は憧れの国に変わりました。
スリランカの外に、もっと幸せな世界があるのではないか
17歳のとき、ボーイスカウトの国際キャンプ「アグーナリー」が京都で行われ、はじめて日本に来ました。近代的な建物、スリランカにはない種類の木、目に入るものすべてが新鮮でした。僕は大きなカルチャーショックを受け、「また日本に来たい!」と強く思いました。 スリランカに帰ってからも、日本の景色が忘れられず、名札に書かれた「ニシャンタ」という文字を、見よう見まねで何度もノートに書き写していました。
17歳ではじめて足を踏み入れた日本。スリランカとはまったく違う景色に魅了された
高校生で進路を決めるタイミングが訪れたとき、スリランカでは紛争が起こっていました。内戦中は外資が流れなくなるため、当時スリランカで一番条件のいい職業は軍隊でした。新聞には、「お国のために頑張りませんか?」と呼びかける入隊募集の大きな広告が掲載され、他の職業よりも格段に良い条件が書かれていました。実際に、僕のまわりの先輩たちも、軍隊に入りました。しかし、彼らはそのまま紛争で命を落としてしまったのです。
「軍隊しか選択肢がないこの国にいたら、自分も死ぬかもしれない」と思いました。同時に、「もっと他に、幸せな生き方があるのではないか。それはきっと、スリランカの外にある」と思ったのです。高校の卒業試験の結果も待たず、僕は日本に行くことを決意しました。
「国際」って何なんや。日本に裏切られた
1987年10月、父が自宅を担保に用意してくれた7万円を握りしめ、片道切符で僕は日本へと向かいました。ボーイスカウトのキャンプで来た際に、ホームステイをさせてもらった青木さんという方が「また来てね」と言ってくれたんです。その言葉だけを頼りに、大阪の伊丹空港へ降り立ち、すぐに青木さんに電話をかけました。本当に来るとは思っていなかったであろう青木さんは、かなりビックリした様子でした。しかも、僕の所持金が7万円と聞き、頭を抱えました。それでも親切な青木さんは「3カ月だけなら」と僕を受け入れてくれ、滋賀県の比叡山のふもとにある坂本という街で暮らすことになりました。しかも、青木さんは日本語学校の授業料も貸してくれたのです。
日本で働くために日本語を勉強しようと考え、日本語学校に行ったのですが、最初の月謝が3カ月分前払いで9万円。僕は自分の耳を疑いました。7万円は僕にとっては大金でしたが、そこではじめて国による物価の違いを知ったのでした。
運良く滋賀県の雄琴(おごと)温泉で布団敷きやお風呂掃除などのアルバイトをさせてもらえることになりました。勢いで日本に来たけれど、毎日布団を敷いて過ごしている。「この先どうなるのだろう……」と、先が見えない不安におしつぶされそうでした。スリランカに残ったほうがいい暮らしができたのではないか。そんな迷いを断ち切るため、スリランカから持ってきた写真や、家族や恋人からの手紙を全部燃やしました。そこで未練が立ち切れたのか、日本語を猛勉強して、1年で日本語能力検定1級を取得しました。
1990年に立命館大学に進学。新聞奨学生の制度に応募し、京都の嵐山で住み込みの新聞配達をしながら大学に通いました。
卒業と同時に、再び将来の選択に迫られます。日本で暮らした数年で得られたのは、日本語力だけでした。このままスリランカに帰っても、通訳の仕事くらいしかできません。もっと日本に残りたいと思いました。しかし、いまのようにまだ訪日外国人は多くなく、働ける場所も限られていました。
当時、グローバル化の波が押し寄せ、日本では「国際」という言葉がはやっていました。「世界まるごとHOWマッチ」というクイズ番組が人気を集めていた時代です。これはチャンスだと考えた僕は、「国際」と名のつく集まりに顔を出すようになりました。そうか「国際と名の付く組織に就職すればいいんだ」と考え、応募してみることに。ところが、そんな僕にことごとく「国際条項」という大きな壁が立ちはだかりました。国際と名のつく組織でも、採用するのは国籍が日本にある人だけだったのです。
国際交流の場に行けば、「外国人」としてちやほやしてもらえるのに、この国で働くことはできない。「国際」とは、国と国をつなげることではないのだろうか――。「メイド・イン・ジャパン」が世界でもてはやされていた時代に、僕は日本社会が抱える閉鎖性も目の当たりにしたのでした。
これは僕だけの問題ではなく、当時日本で暮らす外国人の多くはバラック小屋などで貧しい生活を強いられていることも知りました。
「そうか、日本の国際化というのは、日本人による日本人のためのものなんだ。どれだけの人が、本気で外国や外国人を知ろうと思っているのだろう」
僕は、本気で日本に裏切られたと思いました。就職が決まらず途方に暮れていたとき、友人から「大学院に行ったら?」と勧められ、消去法で大学院に進むことを決めました。
違いを知り、お互いに面白がろう
働く場所がなかったために、大学院に進学し博士課程まで修了しました。いまは羽衣国際大学現代社会学部の教授として働いています。2005年には日本国籍を取得しました。僕は日本に残り、いまもこの国で暮らしています。それは、日本という国が好きだからです。プライベートでは、日本人女性と結婚し、2人の子どもにも恵まれました。最初は妻の親に「国を捨てるようなヤツに娘はやれん」「黒い孫は困る」と猛反対されましたが、いまでは家族仲良しです。

大学教授として働くかたわら、セミナーや執筆活動によって多様性の大切さを伝えている(写真提供/にしゃんた氏)
妻が3人目の子どもを死産したことをきっかけに、得度を受け僧侶になりました。大学教授、僧侶、タレント、そして多様性の語り部として複数の活動をしています。

僧侶としても活動する(写真提供/にしゃんた氏)
国籍だけでなく、性別、性的志向、障がいの有無など、人にはさまざまな違いが存在します。違いを知り、その違いをお互いが面白がり、寄り添うことでしか、一緒に生きていくことはできない。それが僕の考えです。違いを変えることはできないし、変える必要もない。住み分けることもせず、排除することもせず、違いを受け入れる。そうやってともに生きようとすることが、日本の未来を明るくすると僕は信じています。そのための橋渡しをするのが、僕の使命だと思っています。
だから、時には日本の現状について厳しい発言をすることもあります。でもそれは、日本に期待し、もっと良くなってほしいと思うからこそです。それくらい僕は日本に対して愛着があり、この国で必死で生きてきたという自負があります。日本が悪い方向に向かっていくのは嫌なんです。

外国人が、外国人のままに生きていける社会へ、橋渡しをするのが使命
日本に来て、もうすぐ40年になります。我ながら「よう頑張ったな」と思います。そして、たくさんのご縁によって、いまの僕があることに感謝しています。「おかげさま」の気持ちを忘れたことはありません。
「国際」に傷ついたという話をしましたが、僕は「民際」という言葉が好きなんです。国を背負う必要はありません。違いとどう向き合うかは、個人1人ひとりの問題です。「いろいろな違いを面白がり、民衆の際で花を咲かせてほしい」。そんな思いで、これからも僕は多様性の大切さを語り続けていきます。
(文/尾越まり恵、表記のない写真すべて/齋藤海月)
にしゃんた
ダイバーシティスピーカー(多様性の語り部) 羽衣国際大学教授・タレント・僧侶
英領セイロン(現スリランカ)生まれ。10代の頃、7 万円と片道切符を手に来日した。現在は「違いを楽 しみ、力にかえよう」をメインテーマに掲げ、全国各地で精力的に講演活動を展開。大学教授、タレント、僧侶など多面的な顔を持ちながら、「ダイバーシティ能力検定®」のファウンダーとしても活動している。多様性を単なる概念ではなく、1人ひとりの人生を豊かにする「実学」として伝える「多様性の語り部」として、産官学の垣根を越えて奔走中。
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