28歳で名店「新ばし しみづ」に弟子入りした三好史恵さん。当時、鮨屋の大将といえばほぼ男性。女性で鮨の修業をする人はゼロに等しかった。
「修業をしたい」と申し出た三好さんに対して、親方はただ一言、「わかった」とだけ答えたと言う。
しかし、いざ修業が始まると親方の接し方はアルバイトのときとはガラっと変わった。
「めちゃくちゃ厳しくなりました。うわー!!! と思いましたね」
それは、いままで三好さんが見たことも経験したこともない世界だった。そのため、怒られても、親方や兄弟子が何を言っているのかわからないのだ。
「義理と人情や、兄弟愛といった世界ですよね。私にはまったくわからない世界なので、ひたすら任侠映画を見て学びました(苦笑)。
簡単に言えば、親方が黒いものを見て『白』と言ったら、それは白なんです。でも、私たち女性は『それは黒じゃないですか』とたぶん言ってしまう。その違いは大きくて、『よくわからないなぁ』とずっと思っていました」
最初はとにかくがむしゃらに働いた。親方の下に兄弟子が2人。一番下っ端の弟子として入り、皿洗いや掃除、おしぼりを洗ったり巻いたりといった単純作業からスタートした。開店までにすべて準備できるように、段取り良く完璧にこなさなければならない。時間通りにできなかったら、親方の怒声が飛ぶ。
「ダメだ、やり直せ!」
「なんでできないんだ!!」
泣きたくなっても、「泣く暇があったら仕事しろ!」と言われる。そもそも忙しいお店だったために、悩んでいる時間はなかった。常に全速力で走っていた。
「それでも、やっぱりよく泣いていましたよ。歴代のお弟子さんの中では、私がたぶん一番怒られたと思います。親方の怒りのスイッチを押すのも上手だったんですよね(苦笑)」
親方は厳しかったが、愛情深い人でもあった。
「何かあれば、必ず守ってくれる人でした。働き始めた当時、親方は周囲から『女性なんて雇って大丈夫なの?』『よく女性なんて雇ったね』と言われていたと思います。後から聞くと、私を雇うときに『一生こいつの面倒を見よう』と思ったそうです。親方も、私を雇う時点で相当な覚悟が必要で、その覚悟を決めてくれたのだと思います。親方でなかったら、私はいまここに立てていません」
女性の弟子に対して、周囲の目も冷ややかだったと言う。
「最初はお客さんも市場の人も、私のことを弟子として見てくれなかったですね。『どうせすぐ辞めるんでしょ』と思われているのが伝わってきました」
それが、悔しかった。
「こんちくしょうですよね。だったら続けてやる、と思って踏ん張っていました。兄弟子たちにも、とにかく続けろ。続けていたらいいことがあるから、とにかく辞めるなと言われていました」
10代のとき、スポーツも美術も極められず、中途半端に終わってしまった。鮨職人としては、絶対に途中で諦めたくない、と三好さんは思った。
「逃げるのは簡単なので。でも、逃げたら『ほら、やっぱり辞めたよね』と言われてしまう。若い頃は、見てろよ、絶対に見返してやるという思いが続けるモチベーションになっていました。
いまとなっては、そんな厳しい修業時代もいい思い出だ。
「確かにすごくしんどかったけれど、それがいまは笑い話やいい思い出に変換されています。それは、すべてがいまに生きているからだと思います。『あれを乗り越えたんだから大丈夫』と思えますし、いろいろなことをポジティブに変換できるように、考え方も変わりました」
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