松崎さんショート

2015年、本願寺派の担当教師として勤めていた学校を辞め、北九州市八幡東区に拠点を置く永明寺(えいみょうじ)の住職を引き継ぐことを決めました。

90年ほどの歴史を持つ浄土真宗本願寺派のお寺、永明寺の長男として生まれ、いずれ自分も住職になることに何の疑問も抱かずに育ちました。
しかし、思春期にさしかかり、「自分の人生、お坊さんになる道が本当に正しいのか?」と考えるようになります。その頃はまだ、信仰とは何なのか、よくわかっていません。そんな自分が、職業として、つまり自分がご飯を食べるための手段として、住職になる道を選んでいいものなのか、迷いが生まれたのです。
本心からではないと思いますが、近所のおじさんに「おまえの家の仕事は、人が死んだら喜ぶんだろう」と言われたこともあります。そんな出来事も重なり、将来住職になることに後ろ向きな思いが芽生えていきました。

迷いながらも、大学は京都にある龍谷大学の真宗学科で住職になるための勉強をして、本願寺派の教師資格を取得することに。教育実習で生徒たちが一生懸命自分に関わってくれたことに感動し、「学校の先生になろう!」と決意しました。
親からは「10年は教師をしてもいい。その後は戻って来るように」と言われていましたが、そんな約束はきっと10年も経てば忘れているだろうと、とりあえず「はい」と返事をして、卒業後は中学・高校で宗教を教える教師になりました。
札幌の浄土真宗の学校で5年働き、その間に知り合った妻と結婚。その後、ご縁をいただき地元・北九州市の学校に転勤しました。

気が付けば、教師になって14年以上が経ち、親との約束の10年はとっくに過ぎていました。教師の仕事は大変でしたがやりがいがあり、「自分はこのまま教師として人生を終えるのだろう」と思っていました。
ところが、自分に僧侶としての姿を見せてくれ、誰よりも私が住職になることを望んでいた祖父が他界。そこで、「このままでいいのか?」と迷いが生まれます。

とはいえ、自分1人で決めることはできません。とにかく住職の妻は大変なのです。もし実家に戻れば、妻にも負担をかけてしまう。それまではまったくお寺とは無縁の環境で育った妻を、できるだけ家業から遠ざけていました。
しかし、「だから、このまま教師を続けようかとも思うんだよね……」と歯切れの悪い私に対して、妻はこう言ったのです。

「私は、あなたが住職になる姿を思い描いて、結婚を決めました」

妻がそんなふうに考えていたなんて、まったく知らなかったので、とても驚きました。妻に背中を押される形で、私は実家に戻り永明寺の住職になることを決意しました。

いざお寺に戻ると、ご門徒(信者)さんの顔ぶれが自分が子どもの頃から変わっていないことにまず衝撃を受けます。当然、皆さん高齢になり、以前のような活気もなくなっていました。このまま新しいご門徒さんが加わらなければ、このお寺はやがてなくなってしまう。何か手を打たなくては、と焦りました。

全国にお寺は7万5000軒あると言われており、その数はコンビニよりも多い。人々にとって身近な存在であるはずなのに、実際にはあまり知られていないのが実情です。 そこで、地域の方を招いてイベントを開催したり、SNSで情報発信したり、新聞にコラムの連載を書いたりして、「開かれたお寺」を目指していきました。永明寺は、用事がなくても、誰でもふらっと遊びに来られるような存在でありたいと思っています。

子どもの頃は信仰とは何かがわからず、頑張って仏様を信仰しようと思っていたときは、自分で仏様を必死につかんでいるような感覚でした。手を離すと、信仰はなくなってしまうのではないかと怖かった。でも、そうではなかったのだとあるときふと気が付きました。仏様が私をつかんでいたのです。だから、必死につかまずとも、仏様が離れていくことはないのだと、そう思えるようになってからは、心がすっとラクになりました。
住職とは、職業というより生き方。阿弥陀如来という仏様のそばに仕えられる自分の人生を、とてもありがたいものだと感じています。

(構成/尾越まり恵)

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