坂牧颯人

2019年、和太鼓奏者になると決めました。

僕は、日本の原風景が残るといわれる美しい山あいの村・新潟県長岡市山古志(やまこし)村で生まれ育ちました。

僕が小学校1年生のときに中越地震が発生。山古志村は全村避難となり、僕は母方の実家のある南魚沼市六日町(むいかまち)へ避難。その大きな環境の変化で不登校になったこともありました。

小学3年生の春、震災復興の一環として佐渡の太鼓芸能集団「鼓童(こどう)」が県内の学校を慰問演奏に訪れました。彼らの演奏する和太鼓の音を聞いて、僕は驚愕しました。

「すごい……!」

言葉にできない感動が全身をかけめぐり、同年10月、山古志村に帰ってからは闘牛太鼓を習い始めました。中学1年生の冬に東日本大震災が発生すると、「自分も何かしたい!」という思いが強くなり、あの日見た「鼓童」には研修生制度があることを知りました。早速高校卒業後の進学先を鼓童に決め、書類選考は親に内緒で提出。合格してから「次は面接があるから佐渡に連れて行ってほしい」と頼み込みました。親の大反対を押し切って二次面接に進み、無事合格。親元を離れた太鼓漬けの生活が始まりました。

ところが1年生の9月、練習の途中で靭帯を切る大怪我を負いました。これが原因で進級が叶わず、その後も状態が回復せず「スタッフとして働かないか」と誘われたものの、怪我をしながらも当時やれることはやり切ったという思いが強かった。これを機に鼓動を離れ、山古志村の「あまやちの湯」という宿泊施設で働き始めました。そんな生活の中でも太鼓は続け、少しずつ老人ホームなどで演奏する機会が増え、本業にも支障を来たすほどの依頼がくるように。そこで2019年、和太鼓奏者として生きていくことを決意。コロナ禍では大変な時期を過ごしましたが、それでも地道に活動を続けています。2021年10月23日に開催された中越地震の追悼式では、現在も鼓童のメンバーとして活躍している研修所の同期や先輩と共演する機会もありました。

経済的に不安定な仕事ではあるけれど、いまがいちばん毎日が充実して、自分が生き生きしています。妥協しているわけでもなく、いまがいちばんいいと思える。だから僕はこのまま和太鼓奏者として生きていきたいし、こんな田舎に生まれたって芸能の仕事で生きていけるんだという背中を子どもたちにも見せたい。手の届く場所に夢を叶えた人がいる。そんな存在になっていきたいと思っています。

おすすめの記事